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世の中に作品はない

おはようございます。きょうも書いていきます。

むかし北京の居酒屋で上司から烈火のごとく怒られたことがある。僕が自分の携わった広告の仕事を「作品」と表現したからだ。その上司に言わせれば「広告主がいるのだから作品でなく納品。作品はおこがましい。」だった。当時も今もその話に納得しているのだが、まだこの事が胸に残っている。

広告の仕事はどこまでいっても広告主がいる。もうすこし直接的に表現するなら金主がいるのだ。広告の仕事で作られるCMやポスターなどの制作物はお金を出す人の物という考え方に賛同しない人は少ないのではないか。僕らがオーダーメイドの服を買ったりするのと変わりのない行為だとも言える。

では金主のいるいないで、納品と作品を分けるべきなのか。僕はそれもまた違うのではないかと考えている。なぜならすべての制作物は納品だと考えるからだ。世の中に流通しているすべてのものは納品で、しないものは作品という分け方が正確ではないだろうか。

たとえば画家が自宅で絵を描いて、アトリエに飾っていたとする。誰の目にも触れていなければそれは「作品」だ。しかしある日、自宅に友人を招いて絵を鑑賞してもらった瞬間、それは「納品」に変わるのではないか。作品は「評価」を得ると納品になる。

この「評価」というのが重要で、つまり「価値として評される」のである。それまでは自分の尺度にしか納まってなかったものが、他人の目に触れると他の尺度にも納まることになる。望む望まないに関わらず価値を持つことで「納品」になるのだ。

すでに価値があるものをないものに戻すことはできない。価値は不可逆だ。世の中(狭義を含む)に出回って価値を持てばそれは立派な納品といえる。「納品」とは動的で、動きなのだ。「作品する」という言葉は存在しない。このあたりはBeingとDoingの話に近い。「作品」はBeingでDoingではない。

自分が作るのは「作品」と「納品」どちらかを悩む人は多いのではないか。止まっていれば「作品」だが、動いたら「納品」だと考えればわかりやすいかもしれない。そして動いているものに熱は宿るだろう。

きょうも読んでくださって、ありがとうございました。よい一日をおすごしください。

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吉澤 馨
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