「心意気」を買う──『現代詩手帖』

『現代詩手帖』。白すぎる。


『現代詩手帖』なのである。

僕が、毎月ではないにしても、定期的に購読している雑誌のひとつ。
定価、1650円。大学生の僕は買うのを躊躇するというか、このようなペーパーバックにしては、普通に高い。
さらに中身をめくってみると、当然詩の雑誌なので、このようなことになる。

わけがわからない。このような文章を書いて得た原稿料で生活している人間がいるということに、たまに愕然とする


意味不明である。

しかも一冊を通して、ずっとこの調子である。

意味がわかる作品もあるが、だいたいの作品は意味不明というか、「ん???」となる一行に出くわす。しかも、一文一文の間に空白は空くし、文字はでかい。だから、コスパでいえば、この本を買うという選択肢はありえない(ちなみに僕がえらぶコスパ最強の本は百科事典)。

しかし、現代詩は、というか、芸術は、そもそもコスパではないのである。

『現代詩手帖』は、詩誌のなかでもかなり歴史と権威がある雑誌であり、年一回発表される「現代詩手帖賞」を受賞した詩人は、周囲の賞賛と羨望の的となる。月にだいたい800通ほどの詩の応募があるという。
むろん、現代詩という、そもそもきわめてニッチなジャンルにおいて、月に800通の応募、そして多くても数万部の発行部数で元が取れるのか、今後やっていけるのか、という質問に対しては、僕は首肯しかねる。

しかし、そもそも詩では食えない。詩で食えているのは、谷川俊太郎や吉増剛造、最近では最果タヒといったビックネームばかりである。そして、そのようなビックネームであっても、企業とのタイアップをしたり、全然関係ないジャンルのエッセイや評論に手を出してみたりと、詩だけでは食えていないのが現状である。

ためしに、この詩集に寄稿している詩人の名前を挙げてみよう。安藤元雄、池井昌樹、高橋睦郎…。いずれも、現代詩壇を代表するビックネームである。しかし果たして、詩に親しんでいない一般人が聞いてわかる名前だろうか?
そもそも詩人は、芸術家や音楽家にくらべて、圧倒的に知名度がないのだ。

また、教科書に載るレベルでの詩人でも、出版社に勤めていたり、大学教員をしたり、翻訳をしたり、何か兼業で詩を書くというパターンがほとんどである。なぜなら、詩集は売れないから。

『現代詩手帖』を発行している思潮社の目録から、いくつか見てみよう。

「散文詩」19篇。
上は散文詩であるし、もちろん一篇の長さによって変わってくるが、コスパで考えると、上の詩集よりこっちの詩集の方がお得。

うーん、

19篇、2420円。

36篇、2750円。

もう一度言おう、詩はコスパ最悪である。

しかし、詩はコスパではない。

僕の詩集の楽しみ方というのは、とりあえず理解できなくてもパラパラめくる。とりあえず読んでみる。そしてそのなかに、何か少しでも琴線に触れる一行があればいいと思っている。その一行を大事にする。その一行を覚えておいて、ときおり諳んじる。するとどうだろう、その一行はプライスレスである。
コスパなんか考えるな。自分のやりたいことをやれ!芸術に大事なのは、その「心意気」であろうと思う。

先程の現代詩手帖についてもそうだ。あの文字のデカさで、しかも全部詩について書いた本で、1500円取ろうというのは、一般人からしてみれば正気の沙汰ではない。

僕は、あの『現代詩手帖』の、いや、ウチは歴史を守るんや!ウチは詩から逃げない!食えなくなっても詩でやってやる!という、その「心意気」を買っているつもりなのである。だから、1650円だろうが1万円だろうが安い。心意気はプライスレスである。

正直、思潮社が出している詩集で採算が取れているものが、果たしてどれだけあるだろうと思う。内輪で献本して終わりの詩集もおそらく何百部とあろう。そもそも、電子書籍が登場し、コスパ重視の世の中とは、装丁を凝って中身で勝負しようというスタンスの詩集や短歌集(なお短歌集については、いわゆる「現代短歌」のブームとともに、書肆侃侃房が躍進したので、全体的に見て売れ行きは好調である)は、相性が悪い。もしかしたら食えなくなることもあろう。

しかし、それでも詩を読みつづける人はいる。僕がそうである。なぜなら詩はコスパではないからだ。

最後にもう一度言おう。詩はコスパではない。僕は、詩集の「心意気」を買っているつもりである。

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