悲しき東京

まず、レヴィ=ストロースからはじめよう。かれは、みずからの旅行記を「私は旅や探検家が嫌いだ」という、自己言及的な、矛盾した一文からはじめる。
今回、何度目かわからぬ東京旅行の記録をこうしてしたためるにあたって、僕もそれにならってみたい。つまり、僕も、旅や探検家が嫌いだ、という、パラドキシカルな一文から、自分自身の旅の経験を見つめなおしてみたい。
レヴィ=ストロースにならってではあるが、僕ははじめにこう言いたい。僕は旅や探検家が嫌いだ。しかし、旅をしている自分自身は好きだ。
はじめに断っておくが、僕は、東京そのものに対して、なんらかの情趣や感興をそそられて、それを自分の思い出として、その記憶を生きるよすがとしながら日々を暮らすことをもとめて、旅をしているというのではない。僕にとっての旅は、いつも自分を見つめなおす手段のひとつとしてあるものだ。僕は旅を通して、東京そのものに対してなんらかの情趣をそそられるとともに、またその情趣を通して、それを感じている自分自身に対して、その成長や変化を感じるために、旅をしているのだ。つまり、僕にとっては、旅で見聞きした事物は、単なる思い出としてよりも、自分自身を見つめなおすための道具としての側面が大きい。

とくに東京はそうだ。

成田に降りたつと、その建物の異様に圧倒される。福岡空港とは、やはり規模感が違うのだ。端的にいえば、福岡空港は都会のなかにあって、建物も、地方都市の空港らしく抑制された印象があるが、成田空港は農村の畑のなかに、巨大な鉄の塊が埋めこまれているという感じがあり、メトロポリスというのは、その連絡口をつくるためならば、緑をつぶし、土を掘りかえすようなこともやれてしまうのだという、ある種の残酷さへの感興をそそられる。
成田空港の、コンクリートが打ちっぱなしの殺風景な連絡通路を歩く。空虚な壁面にはポケットモンスターがあしらわれた、オリエンタリズムを喚起させるようなデザインの広告が一面に貼りだされている。成田エクスプレスに乗って東京駅まで、車窓を眺めながら時間を潰す。

列車は成田を出てからしばらく、おだやかな田園地帯を疾走する。目には見えないマイクロレベルでの煤煙が、いまも着実にこの成田の清貧な山々をむしばんでいるのだろう。端的に、工業の悪という感じが、僕の胸を去来する。僕が思い出したのは、小野十三郎の「工業」という詩であった。


工業     小野十三郎

洫(いぢ)川を埋め
湿地の葦を刈り
痩せた田畑を覆へし
住宅を倒し
未来の工業地帯は海に沿うて果しなくひろがつてゐる。
工業の悪はまだ新しく
それはかれらの老い朽ちた夢よりもはるかに信ずるに足る壮大な不安だ。
私は見た。
どす黒い夕焼の中に立つて
もはや人間も馬どもも棲めなくなつた世界は。

またいい。

この詩のはじめの、「洫(いぢ)川を埋め〜」の部分が、実に半年ぶりに成田を見た僕には、まさに自分のいま見ている風景そのままの描写のように感じられたのだ。
この詩から感じるのは、端的に、急激な工業化への嫌悪感であろう。実際、小野十三郎は、社会運動に積極的に参画した人であったらしい。
しかし、小野は同時に、たっぷりと行空けをしたうえで、この詩を「またいい」という一文で締めくくっている。ある種のカタルシスさえ感じられるこの部分、ここがこの詩の肝なのだ。
しかし、何が「またいい」のだろう?
かれは工業化を憎みつつ、それをあきらめながら仕方なしとして受け入れているのだろうか?「またいい」は、その甘受を表現した一文なのだろうか?

そう考えているうちに、成田エクスプレスは習志野、船橋へと入った。一気に風景は都会的になるが、やはりどことなくいびつだ。工場と高層マンションが隣接して展開している感じがいびつなのだ。
成田は、空港周辺を除けば、田園風景が広がる、いわば東京の穀倉地である。では、習志野・船橋はどうか?東京の工場ではないか。これは、東京がそれらを所有しているということを意味しない。東京のための、穀倉地。東京のための、工場ということだ。
大都市は、その生産に関して、自分で直接手を下すことがない。その代わりに、拡大をつづける都市のその周辺に、農地や工場を立て、そこで生産した物資を都市に運びこむのである。
僕は、この風景を見ていて、社会学者ウォーラーステインのとなえた「世界システム論」を思い出した。

ウォーラーステインは、世界を西ヨーロッパなどの「中心」、東ヨーロッパ、日本などの「半周辺」、アジア、オセアニア、アメリカ大陸などの「周辺」に区分し、「中心」とそれ以外の間で不均衡な交換が行われ、剰余価値が「中心」に吸いあげられることによって、「中心」を基軸とした資本主義システムが構築されていくのだ(植民地などもこれにあたる)ということを論じるのだが、これはまさに東京とその周辺都市の関係と同じではないかと思う。
かつて大英帝国が世界の半分を占める植民地から、大量の資源を本国に安く輸入して「太陽の沈まない国」として世界の覇権を握ったことと、東京がその周辺都市から、大量の資源を安く買いあげ、それを消費する都市として、太陽が沈んでからも煌々と光るビル群を屹立させていることと、いったい何が違うのだろう。
それは、本質的には何も違いがないのではないか?

千葉を通過して都内に入ると、都市は、その消費の様相を隠すことがなくなる。もはや田園も工場もない。あるのは、ただ狭苦しく並ぶ家、そしてそれとは対照的に、圧倒的な量感をもって存在する数々の商業施設である。しかし家も商業施設も、総じて土地がないことは暗黙のうちに理解しているから、横方向に幅を拡大するのではなく、太陽をもとめて上へ上へと繁茂する植物のように、縦に伸びてゆこうとする。こうして、都市の建物は、おのずから高層になる。
東京の家は狭く、家同士の距離も近いのだから、江戸の長屋の伝統よろしく、緊密なご近所付き合いが成立してもおかしくないはずだが、逆に広々とした一軒家が主体の地方の方が、「向こう三軒両隣」的な、深い地域間の紐帯が存在することは不思議である。そして、そのような地縁的な結合は、東京には希薄である。
人はひとりでも生きてゆける。少なくとも東京においては。しかし都市の人々は誰かわからない人がつくった食べ物を食べ、誰かわからない人が配達した荷物を受けとって生活している。そこに、たしかに人は存在するが、資本主義のシステムが個人的な差異を覆いかくしてしまうから、個人が自分自身をあらわそうとするためには、なるべく金銭の介在しない、たとえば趣味の領域で自分自身を定義づけることが必要になってくる。こうして、東京をはじめとする都市では、芸術や音楽などの文化が発達するのだろう、と僕は思った。
しかし、趣味は金にならない。楽器屋は儲かるが、演奏家になれるのはひと握り。画材屋は儲かるが、画家になれるのはひと握り。そして、別にそれがなくても生きていけるのだ。

資本主義のシステムが発展するうえで、剰余価値は非常に重要なものとみなされる。食えない産業が発達するのも、この剰余価値があってこそだ。しかし、何が剰余だというのだろう。都市には人間があふれている。人間はまちがいなく剰余であるだろう。画一的な仕事に疲れ、また競争に疲れ、余暇で自分自身を定義づける気力もなくなってしまった、空っぽの、疎外された人間が、向精神薬に頼って労働する人間が、剰余であるだろう。では、そのような人間の剰余価値とは何だろう。そもそも、人間のためのシステムに、人間の価値が決められるようなことが、果たしてあってよいのだろうか。
価値とは、本来外から定義されるものでない、内在的なものではないだろうか。
ターミナル駅に付随して成立する巨大な第三次産業の集合体に、果たして僕たちの価値を決めることができるのだろうか。人間疎外の好例を、当然ながら僕は都会に見いだした。

そのようにして僕は新宿駅に降りた、そしてあらためて、ここまで商業施設と居住施設が明確に分かたれた場所は珍しいと感じた。つまり、必要以上に広々とした商業施設と、必要があるのに土地がないせいで狭苦しくなってしまっている居住施設が、新宿という都市を成立させているということだ。そして、どちらも上へ上へと増築する。福岡や大阪にくらべて、東京のマンションは、狭くて長い(もっとも、晴海などの新興住宅地になってくるとこのかぎりではないが)。僕はそれにどうしても息苦しさを感じてしまう。

東京には、素敵な人々がたくさんいる。僕は都会的な人々が好きだ。ここまで東京の悪口を書いてきたが、人の洗練という部分において、東京の右に出る都市は、おそらく日本にはない。今回僕が会って、人生に思い出を添えてくれた人々も、みな洗練されていて、ソフィスティケートな印象があった。かれらは全員喫煙者だった。

原宿の喫煙所で煙草を吸っているとき、その煙のあいだから、全面ガラス張りの高層ビルが屹立しているのが見えた。ガラスは周りのビルの光を反射して、あたかもそれ自身が光源となっているかのように、まばゆい輝きを放っている。そのビルから視線を下げると、竹下通りにはプラダやグッチを身につけた人々が、そのブランドの威光にささえられて、自信を肩にみなぎらせて歩いている。あたかも自分自身がプラダやグッチの商品と同じく、何か超越的な資本主義の光にささえられて、それをもとめる人々がいまも自分を待ちうけているのだというように。

人も土地も混みごみとした山手線沿いを離れ、西東京の方に足を向けると、東京のまた違った一面がその姿をあらわす。新宿や渋谷にあった、あの大がかりな商業施設は姿を消し、その代わりに、背の低めのアパートや一軒家が、閑雅な様子で、小綺麗な道路から少し身を引くようにして林立している。
しかし他の地方都市とくらべると、その空間的な狭さには、依然として驚かされる。まず、多くの一軒家に、駐車場や庭がないのである。僕の故郷である福岡では、たとえ市街地であっても、一軒家といえば、広々とした庭と、乗用車を二台は停められるスペースのある駐車場のあるものという認識が一般的であるが、東京はそうではないのだ。土地が高く、また車をもつにしても、その維持費がかかる。都市は消費を促進するが、それゆえに、高度化された消費文化は階層化と分断をも促進する。つまり、車をもてる人ともてない人がおり、また一軒家をもてる人ともてない人がいる、という、無数の区別が生まれてくる。それらは消費文化の轍を踏みながら、また産業のぬかるみに新たな轍を作りながら、時代とともにゆっくりとその姿をあらわしてくる。

「東京の中心で暮していくのは大変です。それならこっちの方が家賃も安いしね、電車ならすぐですし、持ち家の一軒家だって持てるかもしれないですから」

西東京の喫煙所で煙草を吸っているとき、そのような会話を小耳に挟んだ。なるほどたしかにその選択は合理的かもしれない、大都会の喧騒から離れ、自分自身の生活をしっかりとやりとげるために、あえてここに居を構えるという選択は。しかしここ西東京に住んでいようとも、東京の中心に人が吸いよせられるという、その事実は変わらないのだ。東京都市圏に住んでいるかぎり、いや、この日本に住んでいるかぎり、人はこの大都市の誘引力、魅惑的な東京の誘引力から逃れることができない。それは、ほかならぬ僕自身が証明しているのだ。このように無機質な東京を憎みながら、同時に東京にいる人々を愛し、また東京を自分自身を見つめなおすための道具として扱っている僕自身が…。

西東京のことについて考えるとき、僕が思い出さずにはいられないのが、フォークミュージシャン、高田渡の曲「銭がなけりゃ」だ。かれは高円寺のライブハウスでよく歌っていたという。
歌詞を一部引用してみよう。

北から南から    いろんな人が
毎日家をはなれ
夜汽車にゆられ   はるばると
東京までくるという
田んぼからはい出   飯場を流れ
豊作を夢みて来たが
ドッコイ!   そうは問屋がおろさない
お役人が立ちふさがって言うことにゃ
わかってるだろうが
来年は勝負なんだよ…!?
銭がなけりゃ   君!   銭がなけりゃ
帰った方が身の為さ   アンタの故郷へ

東京はいい所さ   眺めるなら申し分なし
住むなら青山に決まってるさ   銭があればネ!

リリースは1971年だが、当時から東京に住む人々の窮状は変わらなかったことがうかがえる。
もうひとつ、面白い点がある。それは、この歌詞のなかで、東京が「北から南から    いろんな人が
毎日家をはなれ」、「夜汽車にゆられ   はるばると」来る場所だ、と歌われていることだ。
そもそも東京は、遥か400年前の江戸の時代に、徳川家康によって人為的に整備され、移住者を募ってつくられた都市である。つまり、東京は、その都市の成立からして「北から南から   いろんな人が」来ることによってつくられ、発展していった都市なのだ。
そうして都市規模が拡大するにつれ、武蔵野、つまり西東京に広がる台地も埋めたてられ、ビルが立ち、北から南から来たいろんな人が住むようになった。そして、先に述べたような都市の孤独と人間疎外は、都市の発展とともに、刈り込まれた芝生を押し流す洪水のように、西東京にも広がっていくのだ、東京の各地で、僕はそんなことを考えながら、ただ黙々と煙草をふかしていた。

ここまで書いて、僕は少し衒った見方をしすぎているかもしれない、と思う。いまの僕自身の価値観からいえば、自分は東京よりも地方で暮らしていくことで幸せになれると考えているから。
しかし、地方に先があるかといえば、それも首肯しかねる。個人的なレベルでの生活はつづいていくかもしれないが、大局的な目線でみると、多くの地方の市街地はゆっくりと衰退しているのだ。今後もそれはつづくだろう。しかし、東京はその地方都市の残滓すらも養分にして光りつづける。東京は若い都市だ。そして、東京は若くありつづけたい。大都市には現状維持の観念が存在しない。大都市は発展か衰退かしかなく、それはそこに居住する人々の価値観もそうなのだ。そして、そのような制約のなかで発展をえらべば、小野十三郎がいうような「工業の悪」が、おのずからもたらされることになる。つまるところ、東京は、地方の生き血を吸いあげて、若さを保ちつづけている都市なのだ。それが僕の、現時点での、最終的な東京観である。


成田空港から離陸した飛行機は、ジェットエンジンの重たい音とともに急上昇し、雲間を突き破ってから、泰然とした飛行をつづけた。3泊4日の旅もこれで終わりである。旅の終わりには、いつもある種の郷愁の念が僕をとらえる。それはふるさと福岡への郷愁ではない。数日間を過ごした、自分の生活の足跡がいまだに残っている、旅行先に対しての郷愁である。

僕はまだ若く、旅の終わりにはいつも寂しくなる。だから、僕は旅先によく忘れものをする。これは元々僕が忘れものをしがちだということもあるが、意図して忘れものをすることもある。僕は、東京に僕がいたということを、東京で出会った人々に、忘れてほしくないのだ。僕は寂しがり屋だ。どうか許してほしい。僕は、この旅先の感興が、いつの日か失われることに耐えられない。これが、若者のわがままにすぎないことは十分理解しているつもりだ。ただ、それでも、寂しいものは寂しい。

僕は自分の足跡を残したい。

たとえば東京の片隅での人々の生活のうちに、原宿の喫煙所の塵のひとかけらに、僕の匂いがかすかに残っていることを夢想して、ひとりほくそ笑むことがあるのだ。または大阪の猫のまばたきのうちに、かれらの単純な脳みそのなかに僕の記憶が反芻されることもあるかもしれないことを想像して、不思議とおだやかな気持ちになることがあるのだ。

僕は旅や探検家が嫌いだ。しかし旅は、僕にとってかたちにできない何かをもたらしてくれるものであると、僕は強く信じている。今回の東京行きは夢のようだった、僕は何度もこれを思い出すだろう。新宿駅でいらぬ思索にふけっていた当時の自分が、たしかに幸福であったことを感じながら。




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