夢。願い。希望。。 私たちの生き、そして暮らしているこの人生は、 これらなくしてはその意味すら失われかねないものです。 人は夢、希望なくしては生きられないように思えます。 日本にはたくさんの神社仏閣があり、そこでは日々、 神仏に手を合わせる光景を見ることが出来ます。 世界中どこに行っても祈りの習慣や儀式があり、 祈る対象は違ってもそれは変わることがありません。 さて、単刀直入に言って「願い」は叶うのでしょうか?
「時間」 毎朝毎晩、24時間四六時中、自分といつも共にありながら、 決して誰も見たことがないもの。 それが「時間」です。 私たちは常に時間の中で生きていながら、 それについて真剣に考えたことはこれまでなかったのだと思います。 「時間」は「気づきの道」を歩いていくことと、 どう関係があるのでしょうか?
この世界はあらゆるもの、あらゆることが相反する事柄、 つまり二元性で出来ています。 すべての物は、それを細かく、最小の単位まで小さくしていくと、 プラスの電荷を持ったものと、 マイナスの電荷を持ったもので構成されていることがわかります。 またあらゆるすべての事柄も、それをよく調べてみるならば、 それ自体相反する物事を内包していることがわかるはずです。 どういうことでしょう?
人は生まれた瞬間、この人生というものが始まるわけですが、 「自分とは誰か」ということについて、 何も知らずにこの世に生を受けるわけです。 生まれて物心つくまでは、自分などというものはなく、 ただ純粋なだけの、まったき白紙状態です。 何もわからないでいるその人は、 やがて周囲から、周囲の反応や投げかけられる言葉、 顔の表情などで自分と他人の違い、 親と他人の区別などを覚えていくのです。
「人生の全てはあなたに起こるもの」 そう、前回お話ししました。 すべてはあなた自身にやってくるものであり、 決してあなたが行なっているものではないのです。 ここで、またあなたに質問するとしましょう。 前回でも少々触れたことです。 ○あなたの好きな色はなんですか? ○あなたの好きな食べ物はなんですか? ○あなたの好きなこと、趣味はなんですか? ○あなたはどんなタイプの人が好みでしょうか? ○あなたは何故、その仕事を選んだのでしょうか?
前回、「エゴ」についてお話ししました。 エゴとは存在しないもの、影のようなものでした。 影は実在ではないから、当然何か出来るはずがありません。 それを真に理解した時、 とてつもない気づきが訪れませんでしたでしょうか? そうです。 「あなたは実は何もしていない、したことなどなかった」のです。
エゴ。 エゴとはどんなものでしょう? 自己啓発の様々な本では、これを撲滅するためのHOW TOが必ず書かれ、 エゴイストやエゴ丸出しなど、 決まってよく言われることのないこの「エゴ」とは何なのでしょうか?
前回、あなたの欲しいものは何ですか?というお話をしました。 人がこの人生で欲しいものは、総じて「幸せ」ではないでしょうか? 私のなりたいものは「幸せ」なのです。 色々のものを購入したり、ある分野で成功したり、家を建てたり、 結婚したりといったことで突き詰めればなりたいもの、 欲しいものは「幸せ」だと言えるのです。 幸せになりたい、幸せが欲しいということは、 逆を言えば現在はそうではないということなのでしょうか?
表題にもありますが、もう一度お聞きします。 あなたの欲しいもの、なりたいものは何ですか? なぜこんな質問をするかといいますと、 「気づきの道」を歩き出す人はみな、何かを手に入れようと、 何者かになろうとするために最初は始めるからです。
言葉やイメージは、 それそのものを表し指し示す便利なラベルのようなものであり、 決して存在するわけではありません。 それは影、幻のようで、実在するように見えても、 本当にありはしないのです。 さて、この気づきは、 あなたのこれまで生きてきた人生を根こそぎにしなかったでしょうか? この気づきがとてつもないものであることに気づきませんか?
前章で、影とは存在しないものだとお話しました。 ここではもう少し掘り下げてみましょう。 今、ちょっと電車を思い浮かべてみてください。 線路の上をガタゴトと走るあれです。 では、自動車はどうでしょう? タイヤが四つ、道を歩けば必ず走っているのを見るあれです。 さて、今思い浮かべていただいたそれらは、 本当に存在する電車でも、自動車でもありません。 なぜならそれはあくまでもイメージであり、 イメージには実際に乗ることも触ることも出来ないからです。 当たり前ですか?
あなたに一つ質問があります。 毎日毎日、朝から晩まで、 あなたはあなたの顔を見て過ごしているわけですが、 果たしてあなたは自分自身のことを、 どれくらい知っているでしょうか? もちろん、そんなことは百も承知だ、 あるいは、少なくとも他人よりは知っている、 そんなふうな答えが聞こえてきそうです。 でも、それは本当でしょうか?
大きな失敗、挫折。 大病や災害、大好きな人の死。。 まるで追いかけてでも来るように この人生は苦しみの連続です。 「やります!」と返事をしたかどうかもわからないまま 産まれて物心つく頃には放り込まれていたことに気づく人生というものに 人は翻弄され、迷い、その悲劇の数々に枯れるまで涙するのです。 その度に何度空を見上げ 祈りの届かなかった天の神様に向かって拳を振り上げた事でしょう。 人が生きると書いて読むこの「人生」とは 何故これほどまでに苦しみ多きものなの
目の前のやわらかに立ち上る湯気を眺めていた カップの温かさが指先に纏う 至極の瞬間、ひとときの幸せ これまでの人生、決して生きてはいなかった 人が生きると書いて人生なのに まるで何かに追い立てられているかのように 常に急いでいた 休むこともなかった それは欠乏感?自己欠如感? ただひたすら、自分の認められる自分へとなるために だから疲れ果てていた 目に映る景色がグレーの肖像に見えた時 心はついに弾けた 「もっと違う人生がある」 真っ暗な闇に沈む、たった一人の空
こんにちは。 このNOTEに訪れてくださって、ありがとうございます。 2023年も今日が最後の日になりました。 時が経つのは本当に早いものですね。 2023年3月。 このNOTEを始めました。 これまでもブログをいくつも書いてきましたが、 自分のスタイルやユーザーインターフェイスが、 自分にピッタリ合ったものに、ようやく出会えた気がしました。 週一投稿を目標に、 なんとかそれを守って今年を終わることが出来そうです。 このNOTEは、筆者のこれまでの「気づき」を綴ったも