馬が教えてくれた、私の勘違い人生。新生活が暗礁に乗りかかる直前に、私は何を思い、何を達成しようとしていたのか。
皆さんにとって幸せとは何でしょう?夢を実現すること?では夢を実現した後の幸せって何?
私は自分がつくづく凡人で嫌になることがある。もっと努力すべきであった、とか、もっとこうするべきではなかったか、とか自問自答して苦しむことがある。
こうやって、半世紀を節目に人生を振り返ってみると、つくづく凡人の考え方で凡人なりに悶え苦しんできたなぁ、と感心するが、解決策も凡人並でときどき嫌になることがある。でも、半世紀を迎える頃になると、不思議に自分に嫌気が差すことよりも、若くて無知で元気いっぱいだった自分が、愛おしく、可哀想になることがある。自分を苦しめるよりも、ありのままの自分を暖かく包み込んであげられるのが、五十歳を迎える前にするべきことではないのか? そう、当時の与えられた全ての空間と時間の中で、それなりに自己ベストに尽くした、最高の自分バージョンであった自分を今受けいるべきなのではないか?
話を新婚生活の1年目に戻そう。日本の大学を卒業して、留学の準備をして、大学院へ入学・卒業し、就職、そして長年の恋を実らせて大好きな人と婚約・結婚、寿退社、新しい家族に暖かく迎えられて、これから大好きな夫と家族をスタートさせるんだ、可愛い子供達を迎えるんだ、という希望に満ち溢れた1年目。
今思うと、私の心身は疲れすぎてボロボロだった。とにかく全速力で走り抜けた二十代だったから、後半になるとその歪みが身体に出始めてきた頃だった。留学してから生理が不規則だったので、婦人科の先生の薦めでピルを飲んで生理を規則正しくすることを心掛けた。今思うと、西洋医学というのは本当に危なっかしい。ピルを飲み始めて生理が規則正しくなったのはよかったけど、いつどうやってピルを飲み辞めて、自分の体で生理を規則正しく戻せるか、なんていうシナリオはどこにもなかったし、自分でも考えなかったし、医者も提案しなかった。とにかく、目先のことだけで精一杯で、次の段階なんて考えられなかったに違いない。そして、結婚していざピルを辞めて元に戻ろうとしたら、体が反応しない。これにはすごく困った。なぜなら排卵があるのかどうか、あってもいつなのか、全くわからないということは、妊娠するかどうかもわからないからだ。いつしか私は焦るようになった。もしかしたら子供を授かることはないのかもしれない、と。
次に、体が悲鳴を上げていたのは、どうやら体の抵抗力が下がっているせいなのか、ヒスタミン・体温調整がうまく行かず、夜になるとなぜか胴体に湿疹が出始めた。医者に行くと『環境による外因ストレス性発疹』と言われ、これもまたヒスタミン調整の薬を服用することになった。
薬を定期的に服用する、ということがなかった私の体は悲鳴を上げ始めた。理由もなくイライラしたり、情緒不安定になったりし始めたのは、結婚して、引っ越して、飲み水が変わったばかりではない。
一番の大きな環境の変化は、アイデンティティーが変わった、ということだったと思う。
自分のこと全て切り盛りしたいた独身時代、私は両親に大切に育ててもらった独立心旺盛な娘であり、仕事もキャリアも楽しくてしょうがなかった冒険心の強い女性だった。
寿退社をするということは、これから夫の扶養家族に入り、与えられた生活の中で自分らしさを見つけていく、ということだ。
寿退社して、西海岸から東海岸へ引っ越して、家に入るということはこういうことだったのか!と身をもって理解できたのは、新婚生活1年目だった。
今までの自分とは異なるアイデンティティーが、全く別の個体として他人に入れ替わったかのようだ。今までのワクワク感を別のワクワク感に置き換えなければいけない、と思うようになった。夫の仕事をサポートするのは、夫婦として当たり前のことだけど(自分がキャリアウーマンだったら夫にサポートしてもらいたいから)、それだけの人生なんて考えられなかった。
だから、寿退社して何か生きがいを見つけなきゃ、と思った。コウノトリが赤ちゃんを運んできてくれるのを待つだけの人生、夫の仕事をサポートするだけの人生、考えられなかった。そして自分探しの人生が始まった。
当初はがむしゃらに勉強して大学院の入学願書を準備する予定だった。でも体が悲鳴を上げ始めて、私にはとても無理だと思った。ずーっと突っ走ってきて、休みもせずに、また走り続ける。それをノー!と拒絶したのが、私がおざなりにしてきた健康生活だった。もう体に無理は効かない。体は正直だった。これ以上ダメ!と言われてしまった。
なので1年間は静養しようと思った。病院で素晴らしい先生に出会った。『このまま薬を飲み続けるよりも、この薬の服用をどうやって破棄するかを一緒に考えていきましょう』と言われて、あれ?そんなこと一度も考えたことがなかった、と初めて気がついた愚かな私だった。それだけ目先のことで生きることに精一杯だったのだ。
不規則だった生理を正すためのピルは服用を直ちにやめた。そして夕方になると出始める湿疹は、服用していたヒスタミンの薬の量を少しずつ減らしていった。数ヶ月して服用をやめると、嘘のように湿疹がピタリと止んだ。先生曰く、引っ越してくる前の西海岸の生活で、ストレス・環境公害いろいろな外的要素が絡んで、湿疹に至ったのではないか、と。だから、環境が変わった今の時期に、規則正しい食生活をしましょう、と生活習慣から一緒に見直してくれた。素晴らしい先生だった。
博士課程の大学院は1年間延期することにした。体を動かすこと、知的好奇心を枯らさないこと、この2つを軸に、私は長年やりたかったことを実現することにした。夫に話すと大賛成してくれた。
体を動かすこと。私は動物が大好きだ。父が乗馬が好きだった影響もあって、一週間に3日、乗馬のクラスを受講することにした。なんて贅沢な時間だったことでしょう。様々なアクティビティーを考えてみましたが、この田園都市で何が一番って、広々とした空間でしょう。狭い空間だった大都市、東京・サンフランシスコしか知らない当時の私は、田舎暮らしが馴染めなかった。だから田舎暮らしが好きになれるような活動が必要だった。
乗馬のクラスは大学の体育の授業で、私は社会人登録した。大きな室内乗馬施設もあり(大学はポロが盛んだった)、天気がいい日は外でクラスがあった。
都会育ちの私の乗馬の経験は、どちらかということ『なんちゃって乗馬』体験入学しかなかった。父が大学生の頃に訪れたアメリカのテキサスの牧場で乗馬を習ったので、父がときどき馬に乗りたくなる時に、父について東京郊外の馬乗りできる公開牧場に行った。父はウエスタン乗馬スタイルで、ギャロップが好きだったから、英国式乗馬は全く知らず、何のその、馬だけ貸してくれ、という状況で、牧場の人に馬を持って来させて、乗り終わったら馬を返す、という全くのお客さんだった。だから私もついでに馬に乗せてもらう、どうぞご自由に馬と歩いてください、というスタイルで、乗馬を習った、という経験であったような、なかったような… しかし、手綱がああだこうだ、止まれ・歩けのサインはこうだ、乗り降りとかも細かく覚えているので、おそらく高いプライベートレッスンで習わせてもらったのでしょう。
そんな経験とは全く180度異なった! 乗馬クラス開始前、1時間ぐらい前に行って、まずは当てがわれた馬のブラッシング、サドルを付けたりして、馬のお世話。大学のポロ競馬場にいる馬は、現役からリタイアした高齢の馬たちだった。背の小さい馬から、大きな馬まで、それこそ十人十色、じゃなくて十馬十色でした。
私の最初の馬は、Betsyというおっとりした老婆・馬だった。Betsy、また来たよ、と話しかけると、長い睫毛をゆっくり動かして一度瞬きしたかと思うと、私の目を真っ直ぐに見た。まるで、人間の品定めをされているかのようだったので、ドキドキした。
Betsyは私が初心者だというのはすぐに見分けた。そして優しかった。他の馬にも優しかった。私はとても癒されてた。毎回クラスにいくのが楽しかった。Betsyのおかげで、全てがうまく行った。もう乗馬は続けるしかないでしょう、というレベルまで持ってきてくれた。本を読んで、乗馬にのめり込んでいった。
大学の乗馬施設・クラスを取り仕切っているのは、Lucyという五十歳半ばをすぎた、もしかしたら六十歳に手が届きそうなぐらいのアメリカ人女性の先生だった。クルクルの金髪を肩ぐらいまで伸ばし、エラのはった四角い顔で、ソバカスが無数にある日焼け顔、背は150cmも無いのではないか、と思われるほど小柄で痩せていた。おてんばのソバカスの顔をより一層可愛らしく見せるためなのか、スカーフを必ず首に巻いていた。高級なシルクのスカーフでなく、いつもコットンの水玉模様、とかいつもスカーフをしていた。そんな可愛らいしく小柄な先生の外見からは予想できないほど、性格は威厳に満ちていた。彼女から20メートル離れていて、見えなくても、その存在感がわかるほど、声が大きくて、貫禄のある先生だった。
小柄なのに、乗馬ブーツに”履かれている”私とは正反対で、彼女が乗馬ブーツを”履いている”オーラが放たれており、いい意味では威厳たっぷりの上品な先生、悪い意味では威張り散らしている高飛車な先生だった。
最初は怖くて怖くてたまらなかった私。乗馬のクラスでは、彼女が乗馬場の真ん中に立ち、その周りを十人ぐらいの馬に乗った生徒がぐるぐる回る。その先生が、あーしろ、こーしろ、と一時間ぐらい喋り通す。馬も私も真剣に耳を立てて聞く。
ある時、大人しそうな女子生徒が乗った馬が暴走し、その子が真上から振り落とされた。それを目撃した初心者の私たちは、体が固まってしまった。停止した。馬も人間もそれを見て、体が硬直した一瞬だった。
すると、その先生は何事もなかったかのようにその暴走馬に近づき、ソバカス顔で馬をキッと睨んだ。蛇に睨まれたカエルのように、馬が怯んで大人しくなった。その隙に、馬の手綱をもち、落馬した生徒のところまでスタスタ歩いて行って、怪我がないか、痛いところはないか、早口で捲し立てたと思うと、落馬した生徒にすぐに乗れ、という。でないと、馬にもよくない、という。心が驚いている生徒は、驚きながらもすぐに気を取り直し、馬に乗った。そして、何事もなかったかのように、またクラスが再開された。
人間よりも馬が大事。その姿勢に、私は心を打たれた。動物を愛する人に悪い人はいない、という根拠のない論を持つ私は、先生にお近づきにならなければ、とすぐに思い直した。
その日を境に、私はそのおっかない先生に話しかけるように心掛けた。最初はほとんど質問だった。怖くて聞けなかったことを、堰を切ったように質問しまくった。すると○○の本を読め、と言ってきた。毎日少しずつ読み始めた。知らない単語がいっぱい出てきた。その時、英国式の乗馬が、父に習ったウエスタンと全く違うことがわかった。
その先生とお話ししたことで、1つだけ鮮明に覚えていることがある。先生が、いつも私に『ソフト・アイ(=Soft Eye)で背を正して前を向いて!』と注意するのだ。ソフト・アイ? なんだそりゃ?
細かいことを根気よく説明できる先生ではなかったから、何が何だかよくわからなかった。薦められた本を手に取って、ようやく読んでわかった。日本の時代劇に出てくる武士、例えば乗馬が得意な暴れん坊将軍が、ギャロップして馬を乗り回しているとき、目が真剣勝負そのもの! だが、ソフト・アイはその反対。
馬に乗っている人間が、目をギラギラさせて人を殺す勢いそのものだと、馬もその気持ちを反映してしまう、ということだそうだ。あくまでも優しい目で見ること、それは自分の馬にもその優しいエネルギーがソフト・アイで伝わってくる、ということらしい。
戦場ならギラギラして馬と一緒に人を殺す、だが優雅な英国式乗馬ではソフト・アイであくまでもエレガントにパフォーマンスする。乗馬で、視覚の態度が馬に伝達するとは、全く予想だにしていませんでした。
不器用な先生だったけど、ソフト・アイの乗馬で、人生観も変わったような気がする。自分が構えると相手も構える、自分がおおらかだと相手もおおらかになる、馬は人間の鏡。日々日頃、話す相手も馬と思えばいいんだ、というのが、乗馬を通じての私の大きな収穫でした。
静養と化して、馬とコミュニケーションを通じて心が癒された乗馬訓練の1年。夫の愛に包まれて(と思っていた)新しい街での新婚生活。
乗馬にのめり込んで1年が過ぎようとしたころ、乗馬を続けられない怪我を負うことになろうとは、誰が想像していたでしょうか。
全てが完璧だと思っていた生活に影が落とされたのは、新婚生活1年目でした。たった一つの事件で、今思い出すと当時の私と夫の関係が180度変わりそれが踏み台になって、それ以降の夫婦関係が始まった、と言っても過言ではないかもしれない。いや、そう思いたくない自分と、常に戦っていた、と行ったほうがいいかもしれない。
ある意味で、大好きだった乗馬クラスを怪我でやめなければいけなかった、というのは、馬がその警告をしてくれた、と思ってもいいのかもしれません。
人間、その出来事の因果関係を考えるとき、今になって辻褄が合うことがわかっても、当時はわからない。私たちにできることは、幸あれ不幸あれの出来事にかかわらず、その因果関係を理解しようとする心のアンテナ、現実を受け入れる謙虚な気持ち、を絶対に忘れてはいけない、と思う。なぜなら、様々な出来事には、原因と結果が必ずあるから。こじつけだと思う人もいるかもしれないが、自分の人生はそうやって物語を成していくのだ。
次回はその事件についてお話しします。