田園の大学街、東海岸で新婚生活スタート
結婚式、新婚旅行を終えると、夫の就職先がアレンジしてくれた引っ越し屋さんが大きなトラックで来て、十人ぐらいの助っ人が家へ一気になだれ込んできたかと思うと、ものすごい勢いで家財を運び出し、全てを紙で包んで、段ボール箱に詰めたかと思うと、あっという間に去っていきました。私と彼は空っぽになった空間に残されて、お互い顔を見合わせました。
いよいよ引っ越すんだねぇ…
坂を降りて、最後の夜に大好きなレストランで食事をして、カルフォルニアに別れを告げたのでした。私たちはチーズ・ボードというチーズ専門のお店が、夕方の営業時間だけ(当時)に、余ったチーズを数種類組み合わせて、新鮮な野菜やピクルのトッピングにしたピザが大好きで、よく店の前のテラスでピザを食べました。
心地の良い初夏の夕方時刻で、空が真っ赤に染まって、あぁこの太陽の国ともしばらくお別れだわ… でも今度戻ってくる時には、この街のどの辺りに住むんだろう、どんな家に住むんだろう、何人子供を連れてくるんだろう、どんな仕事が待っているんだろう、私たちの期待と希望がまさに夕陽として現れたかのような夕方でした。大好きなカルフォルニア、さようなら。チーズ・ボード、さようなら。
八月に加州からDCまでの飛行機に乗ると、いよいよ東海岸で生活が始まる、と実感が湧いてきました。空港に迎えにきてくれた義両親が、はち切れそうな笑顔で迎えてくれました。お姑さんが何度も『この日を楽しみにしていたのよ〜』と繰り返して私に言い、抱きしめてくれました。
日本人の感覚からすると、あぁ私は結婚したからこの家の人になるんだ、お姑さんの言うことをよく聞いて家に馴染まなきゃ、と覚悟したのを覚えています。台所では非常に気を使いました。今思うと、アメリカ人の嫁はそんなこタァしないのに… これも若気の至りでしょう。
例えば、嫁入りした義姉が台所で汚れた皿や鍋を洗うのを、一度も見たことがない… いつもソファーにドデンと座って、お姑さんに『飲み物は?』とか反対に気を遣わせていたかも。で、どっちがお姑さんかいな? これは、国の文化の違いか、家庭の価値観の違いか、どちらか未だに判断がつきません。
お姑さんが乗っていた車は新車5−6年目で、もう買い換えると言うことで、譲っていただきました。彼も私も20年以上古い車を長く乗り回していたので、こんなピカピカな車は初めてだねぇー、すごい!施錠がリモートでもできるの? へーこんな機能が付いているのか と、しばらく5−6年落ちの車という新しいオモチャに夢中でした。
今までの彼の加州⇄DC里帰りに同行して、アメリカ国内といえども移動には一日かかり、DCでさえも異国に来たような錯覚に陥るほどでしたが、これから住む街の新居まで車で行き来できる、という距離感が、義家族との心理的な距離感を一気に埋めてくれたと思います。もちろん言うまでもありませんが、その夏におおはしゃぎの義両親が私たちの新居に遊びにきてくれました。遠く離れた日本人の家族しかいない私にとっては、義家族ができたことに大きな安堵感と喜びを感じていました。
しかし、今思うと色々な警告が頭をよぎったことがありました。まず、加州の恩師が『あなた、あのお姑さんは大変よ…』と結婚前に耳打ちしてくれたことです。随分と後になって『先生の警告をもっと素直に聞けばよかったです』と恩師に謝った時、恩師は『人に恋をしているときは、どんな警告も聞けないでしょ?』と私に笑いながら言いました。これも半世紀を節目にして、今では身をもって経験したことなので、よくわかることです。そう、恋している人間には馬耳東風。そんな忠告が、果たして20代の娘の心に届くだろうか? 残念ながら、99%の恋する娘の心には届かないでしょう。なぜ? それほど恋というのは心を遮断して盲目にしてしまうのです。
そんな警告をよそに、私と彼はルンルン気分で、新地の大学街へ移り住みました。大学は丘の上にあって、私たちのアパートはその丘の麓のダウンタウンにありました。二階建ての典型的な天井の高いビクトリアン風の古い家で、一階に私たちの二間のアパート、二階にこれからずっとお付き合いをしてもらう生涯の友人になるとは当時に想像だにしていなかった大学院生2人が住んでいました。その右隣の家に、私たちのようなアメリカ人+アジア人の新婚夫婦、左隣の家には同居が開始したばかりの若い大学生カップル、私にとってはカルフォルニアの東海岸バージョンのような多様性に富む地域で、保守的な白人世界である東海岸かもしれないと思っていた私には、ある意味で拍子抜けし、そのまま全く違和感がなく溶け込んでいきました。
カルフォルニアは地中海気候で、どちらかというと乾燥した砂漠気候、山火事も多いので、森らしい緑が一部に限られていましたが、東海岸の大学街の夏は、まるでピーター・ラビットの世界、森・湖・小川・苔・野花があふれていて、私にとっては”田舎”というよりも”田園街”でした。
そう、豊かな水と緑に囲まれた田園の大学街。大きな大学だったので、人間の手で綺麗に管理されている植物園から、大学のキャンパス内にある渓谷のハイキングコース、街中のサイクリングコース、ほとんど徒歩圏内で大体の要件が済まされる、東海岸ならではの歴史のある情緒あふれるダウンタウン。週末の夕方になると、レストランの前に並べられたテーブルがお客さんでいっぱいになり、ちょっとしたパリ風の通りになるのでした。
都会で生まれ育って、大都市のベイエリアを去ったばかりの私と彼は、何せアウトドアに飢えていたので、引っ越したばかりの夏は、とにかく街や近郊の州立公園まで足を伸ばして何時間もハイキングをしました。夏が終わる頃には、私たちの足は兵隊さんのような強靭な足に変化したことがわかるぐらい、筋肉モリモリになりました。これだけ周りにアウトドアがあるって、最高じゃない?! 都会育ちのわたしたちに、新地は新鮮そのものでした。
早馬のように駆け抜けた、多忙であり充実したカルフォルニアの四年間、私は待ちに待っていた新生活が田園都市で始まり、これから何をしようか、毎日ウキウキしていました。夫は目指していた大学の教職・研究職がとうとう実現し、私は加州で芽生えた専業主婦願望を実現可能にしてくれる新婚生活(その当時はまだ専業主婦になる意思はなかったのですが)が目の前で待っていてくれたのです。
そして、新地で考えました。よく思い出してみると、私の人生は、何だかいつも慌ただしく、ゆっくりした思い出が全くない… よく考えても思い出せない… 皆さん、ここで冷静に振り返ってみてください。あなたの人生、今なさっていることを全てやめて、引っ越して、何もしない1年間を過ごす、ということを考えてみたことはありますか?
私はそれまでの人生を考えて、がむしゃらによく仕事・勉強をして、そして一生懸命遊んできましたが、何に合点したかというと、”何にも追われず静かに暮らす”という経験がないことに気がつきました。
そんなの今の私には無関係だわ、老後でいいのよ、と思えばそれまでですが、日本の実家を出て、外国人として必死に勉強・仕事をして、経済的な義務(=稼いで衣食住を維持すること)に追われていた私としては、全力で走るのをやめて、1分でもいいから休息して、生きていることを確認したかったのだと思います。
最初はすぐに博士課程に入る準備をするつもりで、テストのガイドブックを買って勉強したりしましたが、ある日ふと、このまま走り続けるべきか、それとも今後はいつ訪れるかわからない、あるかもわからない、”何もしない1年間”というのを作るべきか、真剣に悩みました。
そこで夫に相談しました。彼は自分のこれからの仕事に忙しかったので、『好きなことをしてて楽しいと思えることを考えてみたら?』と悟った親のようなことを私に言いました。今思うと、彼としては、とりあえず夢中になっていれば自分の邪魔はしてくれないだろう、という軽気持ちだったかもしれませんが、当時の恋する私としては、なんて人間出来ている夫なんだろう、この人には温かいご飯と温かい家庭が必要だわ、と勘違いしていたのかもしれません。どちらにせよ、こちらの白人社会の男性に多く見られる、自分の稼いだ金の財布の紐を握って、奥さんに財布を渡さずあれこれ指図する態度が自分の夫には見られなかったので、彼が私の気持ちを理解してくれたことに感謝するべきでしょう。
何もしない1年。財政的にも心配なし、キャリア的にもプレッシャーなし、家族の世話も夫の食事と洗濯だけ… そんな自由な1年間を皆さんはどのように過ごしますか? 何のために過ごしますか? 何を目標にしますか?
私には夢がありました。子供時代からずーっとやってみたかった、追求してみたかった、と思っていたことが。そしてついに実現する決意をしたのです。次につながるキャリアにも何にも関係なく、ただただ、やってみたかったけど、さまざまな理由でできなかったこと。まさに夢そのものです。
次回に、この1年が結婚という節目で幸福だったばかりでなく、不幸の土台を作り始めてしまったのではないか、という思念をお話しします。