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「戦友」という存在を得た場所 #私とランサーズ

2019年12月現在、DeNAでオウンドメディア『フルスイング』を担当したりなどしている榮田です。DeNAにも申請済みで(DeNAは副業を申請制で認めています)、地方(福岡)U/Iターン転職支援の「YOUTURN」もお手伝いしています。ありがたいことに、どちらのプロジェクトも自分が情熱を燃やせる目標に向かい、熱く信頼できるプロフェッショナルな仲間たちとフルスイングしている毎日です。

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さて、ランサーズ時代の戦友、みのちゃん(@Mino__Megu)からのお声がけで始まったこの「ランサーズリレー企画」。3年前まで約3年間在籍していたランサーズ時代のことを書きたい。

ところで、ランサーズ卒業時にこんなエントリーをmediumに残したことを思い出した。今見るとイキっていて大変恥ずかしい。しかし、そんなイキった退職エントリを書いた時の私も、ランサーズ時代にもがいていた時の私も、紛れもなく私だった。

そんなこっ恥ずかしい過去の自分を掘り返しに、20代最後の3年間を全力でランサーズに投下して得た、掛け替えのない戦友たちとの思い出を振り返っていく。

▼『卒業生がつなぐ#私とランサーズ』 バックナンバーはこちら

01やましゅう 「ベンチャー、ランサーズ、僕」

02みのぐち「嵐の中を突き進む力 #私とランサーズ

このままでは故郷に帰れない

まずは、「ランサーズ以前」の話をしたい。

私は新卒の22歳から27歳までの約5年間、大好きな地元である福岡県の地場大手企業でのほほんと過ごしていた。経理・財務などを経験させていただいたが、正直なところ全く役に立たないイケてない社員だった。

私はもともとマイペースでちょっとトボけている上に、希望の配属は叶わずいつも「心ここにあらず」な感じで仕事をしていた申し訳ない社員だったと思う。だが先輩・同僚には大変恵まれ、福岡でとても幸せな日々を過ごしていた。仕事での自己実現度は低いけれども、生活の幸福度はとても高い状態だった。

しかし、それでは満足できず「今、ここ」では成果を出せてないけれど、「もっと仕事に熱中して私が成果を出せる環境があるんじゃないか?」と、突飛な発想(=現実逃避)に至り、いきなり安定した地場の会社を辞めて東京の1人社長の「ド」ベンチャーに初の社員として飛び込んでしまった。結果もちろん、そんな自分が役に立つはずはなく、日々自分のできなさを痛感し半年でその会社を去ることになった。これは、強烈な私の挫折体験になった。

大好きな地元の母と友人たちを置いて関門海峡を再度渡ってきたのに(九州出身の人にはわかってもらえるかもしれないが、越境して来た感はいつもある)、このままでは故郷に顔向けできない。大好きな福岡に胸張って戻れない。

すぐにこの会社を辞めてしまったことを母にも友人にも言えず、辛い毎日をプータローとして過ごす中、「文字起こし 在宅」とインターネットで探してランサー(ワーカー)として出会ったのがランサーズだった。在宅で仕事ができ、お金が振り込まれる。このユーザー体験に感動した。自分の存在価値すら疑っていた私に、存在する価値を与えてくれ、希望の光となったのがランサーズだった。

そこから不思議なご縁で、知人から「ランサーズという会社があり、榮田さんに合うと思う」と伝説のランサーズ社員となったY口さんを紹介され、当時人事をしていたUっしーさん(イニシャルトークになってない)、社長の秋好さんと面接させていただき、トントンと入社が決まった。

こんな何者でもない私を「社長室付」で今後拡大するto B事業(当時のLancers for Bussines)にアサインしてくださったポテンシャル採用に心から感謝している。

しかし、半年ほどで離れた2社目で見た創業期の景色、創業者やその頃お会いさせていただいた各界のトッププレイヤーの方々の視座の高さ、やりきり力を近くで見られたことは、その後の私の大きな財産になっている。「彼らのようなトッププレイヤーと同じ景色を見たい」その一心で、今も山登りを続けている気がする。(実際、今本当に山を登り続けられているのかは甚だ疑問だが…)

A立さんという圧倒的存在

これも全然イニシャルトークになってないが、やはり私の(というか多くの人の)成長をA立さん抜きに語ることはできない。

A立さんは圧倒的にロジカルで驚くほど高い視座と広い視野を持っており、いつも場の空気を支配してしまう方だった。

ビジネスマッチョというか、エリートヤンキーというか…(私は同じ福岡出身ということで、愛国心強いA立さんにだいぶん高い下駄を履かせていただき他のBiz devメンバーよりかなり優しく接してもらった気がするが、それでも怖かった)。楽天、GREEでバリバリとビジネスを創ってきた来た方の凄さに本当に驚いた。

ランサーズという得体の知れない零細企業(すみません)の我らが前例ない新規事業を超大手企業に提案に行く際も、圧倒的にこちらが不利な立場のはずなのにA立さんが繰り出す未来予想図に皆、魅了される。そして、「この船に今乗らなければ」という空気を創り、交渉が成立しネクストアクションまでポンポンと決まっていってしまうことがしょっちゅうだった。

「どうにかA立さんのスキルを盗めないものか」と、A立さんと一緒に往訪した時に、こっそりケータイで交渉を録音したことがある。あとで聞き返してメモに分解してみたりしたのだが、A立さんの交渉力を身に付けることはできず、「そもそも〜」という口マネにしかならなかった。(こんなこと言ったら怒られそうだ)

A立さんの社内マネジメントは楽天・GREE式なのか、高い目標を背負った営業組織の管掌役員であったし本当に怖かった(2回目)。先ほども言ったが、私はだいぶん優しくされたほうだと思うが、それでもいつもA立さんの圧倒的な存在を日々感じていた。「さかえださーん!!これ、どうなってんすか!?」大声でこう呼ばれる時の恐怖(だいぶん回数は少なかったので手加減されていたと思われるが)。

しかし、この頃に叩き込まれた基本行動がDeNAで仕事をする今もかなり活きている。こんなに根性を叩き直してもらえる機会は、大人になるとそんなにない。A立さん、ありがとうございました。

「そもそも、なんでベンチャー来たんすか」

ランサーズ時代は私も血の気が多く、できないことも多いおかげで毎日イライラしていて、いろんな方と実に多くの衝突をした。ご本人はもう覚えていないと思うし、細かい言い回しや状況の記憶違いがあるかもしれないが、心に残っているワードを記しておく。

K藤さんに何か頼まれごとにした時に、死にそうに忙しかったので「こんなの、できないです!」みたいにキレながらぶった切る対応をしたところ「榮田さん、そもそもなんでベンチャーに来たんすか!?」とキレ返された。言われた時は私もムカついたが、時間が経つと「なるほど、そうだな」と思い、「できない」ではなく「どうやるか」の「ベンチャー魂」を教えてもらった一言な気がしている。

「お前はもっと周りを見ろ」

いきなり飲みの場でM沢さんに怒られた。こちとら楽しく飲んで酔っているのに、さっと酔いが覚めてしまった。

大変なことを言う。私は内向的であまり他人に興味がなく、そもそも自分の仕事で手一杯なのに「周りを見ろ」と。しかし、確かに思い当たる節がある。あまりに私は周囲を見ておらず、自分がいかに大変か、という話しかしていない。仕事に必要最低限のことしか喋らず、朝から夜まで自分のことしかしていない。周りの人のコンディションなんか気にしたことなかった。「周りが見えていない人」とうつっているんだな、とちょっとしたメタ認知のきっかけをもらった。「自分が正しい」という正しさの思い込みの壁から出ろ、という教訓だとも受け取った。

実態はそこまで深い意味はなく、たぶんM沢さんが酔っていただけだろう。私も酔ったら大変な人だが、仕事はめっぽうできるがM沢さんも酔ったら大変な人である。

「『伝えた』ではなく『伝わった』まで責任を持て」

これはN村さんに教えてもらった。スタートアップ・ベンチャーというのは内情本当にわちゃわちゃしていていろんな大なり小なりの衝突が毎日起きているものだが、ある日ちょっとした紛争が起きてその制裁にN村さんが入った時に「いや、私ちゃんと伝えましたよ」と反論した。

「それ、ちゃんと伝わってました?伝わった、までやってください」

かかさず突っ込まれた。「伝わった」ところまで責任を持て、ということだ。そうなると、「この人にはどう言えば伝わるか」と相手の状況や感情など色々と想像しないといけない。今も大変苦手な分野で、伝える相手となる皆様にはいつもご迷惑をおかけしているが、昔よりはこれでも意識はするようになった…。

しかし、N村さんから言われた言葉たちはこうして書いているだけでも腹が立つ。腹が立つけど正論だ。

「怒りで人を動かすのは三流だ」

これは誰かに言われたのか、自分で思いついたのかもう記憶が曖昧だ。

あんなに毎日プリプリ怒っていた私だが、「怒りで人を動かしてはいけない」というのはランサーズ後には私の教訓になった。ある時、あまりに自分が日々イライラしているので当時の上司で非常に温厚なK野さんに「どうしたら怒りを抑えられるか?」と相談した。その時にアンガーマネジメントを教えてもらったり、いろんな本を貸していただいたりした(借りたままのものもあります、すみません…)。直接的に自分の経験則を押し付けてくることは一切なく、本や法則で諭してくれたりして、その後の見返りを求めないK野さんの寛大さは、その後私の目指す姿の1つになった(まだまだ到達できない)。

ちなみに、K野さんはもちろんこんなことを言うわけはないので、見出しの言葉はK野さんに言われた言葉ではない。

「私にマネージャーをやらせてください」

これは私が当時の上司に言った言葉だ。私は自分で希望して、マネージャーになった。Biz dev初期(3人でやっていた頃)は泥臭い新規営業から納品まで全て自分でやっていたが、その頃はBiz組織が拡大し営業サイド、ディレクション(制作・納品)サイドなどに分かれ40-50名前後くらいはBiz 組織に人がいたんじゃないかと思う。

当時私はディレクションサイドのユニットリーダーというポジションに就いており、チームメンバーとともに、月次の納品金額目標を追っていた。クライアントからの評価も悪くなく、チームメンバーとも比較的うまくやれていたのだが、そのころの大きな私の不満はマネージャー陣への不信だった。

当時のBiz Devマネージャーは全員男性で、営業系のH井さんに象徴されるようにどちらかと言うとオラオラ系が幅をきかせていた(ように見えた、実際にはH井さんはオラオラ系というよりとても優しい、いい人である)。

当時Lancers for Bussinessはとても拡大し、毎月ディレクションサイドは大変疲弊していた。こんなに現場が大変なのにマネージャーは分かっていない。それは営業系のマネージャーが幅をきかせているからだ。それを私が変えねばならない。イライラもMAXまで行くと&そこに変な推測が加わると謎の正義感にすり替わり、「今の現場の大変さをマネージャー陣はわかっていない。私にマネージャーをやらせてくれ」と申し出たのだ。

そうして半年くらいマネージャーのポジションに就いたのだが、まじで何もできなかった。マネージャーって、こんなに見えない地味な仕事(戦略策定、日次・週次の目標管理、各種調整、メンタリング、チーム案件の謝罪、採用・育成・・・etc)が多いのか、と驚いた。さらにチームメンバーを全くうまくマネジメントできず、何もやっていないと思われる。そして各所から詰められる(笑)。

マネージャー陣で議論しても、皆のようにポンポンと改善策を提案できない。仕方がないから、自分の役割を見つけるためにホワイトボードで書記をしていたらN村さんに「いつも書記してますね(笑)」と言われる(相変わらずムカつく人だ)。そして結局、私の手で現場の疲弊を終わらす、なんて壮大なことはできなかった。成功体験を積めないままマネージャーというポジションを終え卒業の日を迎えることになった。

「なら言わしてもらいますけど、そんなんでやる気が出るわけないでしょ」

これはK保くんに言われた。

もう、辛い。書いていて思い出しながら辛い。ランサーズ時代は、ここに書けなかったことも含めて辛いことが99.9%だった。0.1%の喜びと「私たちが未来を創るんだ」という謎の責任感で突っ走っていたが、この99.9%の辛さを味わえたことは本当に良かった。

で、これが何の話かというと、K保くんという営業系の男性が私が受け持っていたチームのメンバーになった時のこと。K保くんと私はお互い正反対の性質を多く持っており、なかなか理解し合えなかった。その頃の私は「きっちり」を重視する(もともと雑な上に、さらに雑さに磨きがかかってしまっている今では考えられないが・・・)「正しさ」重視の人間だったのでK保くんの「よしなに〜」みたいな感じが受け入れられなかったのだ。(本当にごめん)

ある日、何らか私はK保くんに私自身の正しさを押しつける説教をしていて、K保くんがヘラヘラと「ですよね〜」みたいに聞いていたので「ちゃんと伝わったのか?」と疑念を抱き、再度夜会議室に呼び出した。(コワ・・・迷惑極まりない)

「さっきの、本当にわかってる?」

最初はまたK保くんにヘラヘラとやり過ごされていたのだが、あまりに私がしつこいので「なら言わしてもらいますけど、あんな言い方でやる気出るわけないでしょ(関西なまり)」と言われた。

驚いた。自分に驚いた。「自分と他者は違う」そんな当たり前のことが、私はわかっていなかったのだ。K保くんの正義と私の正義、K保くんのモチベーションポイントと私のモチベーションポイントは違うのだ。

クライアントの要求水準が上がっても、ランサーさんから納品がなくても自分のせい

当時のランサーズBiz Devにいた人からすると当たり前の話だが、これはいろんな失敗を経て自分の信条ともなった。というかこう思わないと、ことが進まない。毎月上がっていく高い目標。当初定義した要件より明らかに上がっていくクライアントの要求水準。そこに不平を言っても何も進まない。再度要件定義をし、建設的な提案をする。

約束した日にランサーさんから納品物が上がってこない。それは、そこまでの自分のディレクションミスである。クライアントへの納期・納品物を変えることはできない。事前にあらゆるミスを想定し、様々リスクヘッジをしながら進まなければならない。

それでもいろんなことが起きたのだが、当時インターンとして入ってくれていたKさん、Hさん、Iさんなどいろんな方には、当時学生と思えないほどコミットしていただき一緒に達成を味わってきた。彼らは皆、今活躍している。ありがとう。

最後にもらった最高の言葉

これは冒頭にお話しした、ランサーズ退職時のこっ恥ずかしいエントリにも挿入したものだが、宝物なので再掲したい。

卒業する時にもらったこれらの言葉は今も私を支えてくれている。

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自信がなく何者でもなかった私の存在価値を認めてくれ、行動指針・マインド面で今後生き抜く武器を与えてくれたのがランサーズだ。

勝ち気なあの子が流した大粒の涙

そして2017年12月、私は次なる成長の場をDeNAに求め、ランサーズを卒業した。卒業の意向を震えながら(涙も流しながら)N村さんに伝えた時、しっかりと聞いていただいた。意向を受け入れてもらった瞬間、パッと安堵の表情を私が見せたところ「榮田さん、あなたが抜けることで周りに与える影響を考えてくださいね」と言われてハッとした。これは、単純に一人月いなくなって困るという話ではなく、立ち上げ初期からいたランサーズBiz Devの象徴の1人が抜けることで周りがどう思うか(不安になったりとか)、ということである。本当に申し訳ないな、と思うと同時にそうした不安を与えないコミュニケーションに卒業まで気をつけた。

卒業当日。何をスピーチしたのか覚えていないが、スピーチで涙が止まらなかった。ランサーズは、私の3年間のほぼ全てだったのだ。

私がスピーチを終えた瞬間、初期から一緒にやってきたA木さんが大粒の涙を流した。何も言葉はなかった。涙を流しながら、こちらに駆け寄ってくれたように記憶している。

その時に、彼女のことをすごく大事な存在だと思った。

A木さんは新卒でランサーズに入り、同じようにいろんな経験をしてきたが、凄まじい努力とコミットの人で、当時20代前半にも関わらずもう何周も人生回ったような苦労が顔にも滲み出ているような方だった(褒めてます、ごめん)。いろんな苦労をお互いしてきたが、チームをそれぞれが持ってからは特に、日々話すこともなく相談し合うこともなかった。1年に何回話したのか。雑談をした記憶はほとんどない。

「会話は少なくとも、一緒に遊びに行くことはなくとも、同じ場所でともに戦っていた」「お互いの背中を見ていた」

それが、戦友ということだなと思った。A木さんは、紛れもない戦友だ。そしてあの頃、ランサーズにいた全員が、私にとって尊敬すべき戦友だ。

(後日談)「榮田さんってアンパイ行きますよね」

そういえばランサーズ卒業後に、N村さんに「榮田さんってアンパイ行きますよね(笑)」

と言われムカついた。

そもそもベンチャー・スタートアップを選んでいる時点で異常値な人たちの集まりなので、その中で比べないでいただきたい。私でも既に、たぶん高校の同級生の進路とかで比べたら全然アンパイな人生じゃない異常値。というか、まずもって余計なお世話だ。

「私たち、仲悪いですよね(笑)」

とN村さんに言ったら「え、そんなことないでしょ!?」

と返されましたが。ランサーズ在籍中からN村さんはいつもナチュラルに失礼なことを言う。

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気を取り直しまして改めて。

秋好さん、聡さん、ランサーズに今まで関わったみなさま、上場おめでとうございます!今後のランサーズの挑戦を期待しています。

一緒にBiz Devを引っ張り、今もランサーズで活躍しているS田さん、T屋さんはじめ、今回(全くイニシャルトークになっていない)イニシャルとして出せなかった方々とも大変多くの思い出があり、皆さんに感謝しています。(このnoteの内容に訂正依頼や文句があったらDMくださいw)

冒頭に書きましたが、おかげさまで今も恥ずかしい失敗を日々繰り返しながらも「フルスイング」しているおかげでDeNAでもYOUTURNでも新たな戦友がたくさんできつつあります。

ランサーズ卒業生として尊敬する戦友たちに恥じぬよう、アンパイではなく、引き続き挑戦し続ける人生を送りたいと思います!

全体写真

▲某日、集まれる卒業生が集まり上場をお祝いした時の写真(Y和さんがY本さんとA立さんを邪魔している。すごい勇気だ。犯人はH井さんだが)

N村さん

▲犬猿の仲のN村さんと、本「卒業生リレー企画」発案者の、みのちゃんと。

2019.12.20 ランサーズ卒業生 榮田佳織


#はたらくを自由に  #私とランサーズ  #卒業生リレー

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