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それぞれの欲求。

おはようございます。
日々考えてしまう、「欲求」について。
絵が売れるのも波があって、どーっと注文が来たりさーっと波が去っていったり
上がり下がりがあります。

最近、Twitterを頑張ってみようと思ってますが、これまた難しいですね。
一言でまとめるって言うのは私の中でだいぶ課題としています。
noteでは思ったことをつらつらと書いたりできますが、Twitterではものすごく考えて文字を作るのでだいぶ疲れます。

今日のタイトルの「それぞれの欲求」は、アーティストとしての欲求と人間としての欲求と入れ替わりそれぞれの欲求が出てきます。日替わり定食のようにいろんな欲求アラカルトですが、これが私を狂わせたり惑わせたりする事があります。

1人の人間としての欲求としては、誰かの役に立ちたい自分、美しい自然と地球を守りたいなど沢山あります。
アーティストとしての欲求としては、美しい作品を生み出したい、感動させたい、癒しを提供したい。。などなど。思いはつきません。

でも、アーティストとしての欲求と1人の人間としての欲求がぶつかる事があります。「美しい作品を生み出したい」でも、それは自己満足で、誰かに必要とされていない。「アートなんて所詮、衣食住に関わらな無いのだから。生活に無くても関係ない。」そんな心の声があったりします。そう、生活に関わらない。無くても困ることは無いし、あったらあったで生活の中に差し色をする贅沢品のような物。

このテーマが私を苦しめます。

1人の人間としての「欲求」私はこの美しい地球を見守っていたいし、出来たら誰かの役に立てたらいいのにと。今の朝ドラ主人公と似ているような気もしますね。生活に直結する事がないアートを生活や暮らしに盛り込む。それらの私の「欲求」を混ぜ合わせ今自分で納得した上で制作したり、アートを生み出していますが、、時々、このそれぞれの欲求がぶつかり合い「私は一体何がしたいんだろう?」とたまにぐるぐる状態になってしまいます。

私の作品は消耗品で、アーティストとは死んでから価値が上がる存在。

この意識が脳裏に浮かんで、制作の邪魔をします。これは私だけなのか分からないですが、私の意識に入り込むアーティストシンドロームなのかもしれません。

ただ何も考えないまま、楽しいまま作品を描く事ができたらどんなによかったんだろう。考えすぎると結果こうなってしまう。二つの意識がぶつかりあい、それがきっかけで何も生み出せない自分になってしまう。綺麗事を並べているに過ぎない自分にまた嫌気がさして、作品を作ってもこれは人の心を満たせても腹を満たす事には繋がらない。と。

ふと、ドクロのオブジェを思い出しました。120億円のアートなドクロを作ったイギリス人アーティストのダミアン・ハースト氏の作品を思い浮かべてしまいした。

アートって、色々ですね。

私は、考えすぎると少しドツボにハマります。ハマり過ぎて自分が見えなくなるまではまり込みます。蟻地獄のありのように這いあがろうとしても這い上がれずもがく状態です。

だからアーティストなのかもしれないですが、多分他のアーティストもそれぞれの苦悩が有ってそれと向き合いながら、ぶつかり合いながら、自分の作品とは何か?とアートとは何か?と自分の思想・欲求を作品にぶつけながら表現として生み出しているのだと思います。私も同じように、時々自分に意識とぶつかり合い「無力な自分を」感じながら作品を生み出しています。

上がり下がりがあります。上がり下がりがあるからこそ、生きている醍醐味なのかもしれませんね。少々疲れたりする時がありますが、今日は私の中にある「それぞれの欲求」の話をしてみました。

拙い文章を読んでくださりありがとうございました。
今日は少し冷えます。これからどんどん冷えてきそうですね、お体ご自愛ください。

よろしかったらサポートを是非お願いいたします。アートによって人々の感性が開花し、アートって楽しいなぁと思ってもらえる様な活動に専念していきたいです。