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表現したい欲

最近、ふつふつと湧いてきている「表現したい欲」。

私にとっての一つの「表現」は、文章を書くこと。

拙いながらも、20代の頃、2冊の本を書かせてもらって、ものすごい大量の文章を書く練習ができた。そのあとも、絵本の編集・レシピ本の制作など、文章を書くこととは横並びにいる私なんだけど、ここ数ヶ月、そこから離れて、経営のことや営業のことばかり考えていた。

そんな数ヶ月で私の中での表現欲を押さえつけていたように思う。だからこの頃は喉が乾くのと同じように、書きたい気持ちがおのずと湧いてくる。


いろんな表現方法がある。私は、ここで感じた何かを自分の中に入れて、私というフィルターを通して生まれてきた・降りてきた言葉をポツポツと書きはじめる。それがある時い勢いづいて、ポツポツしていたものが一気にまとまりを作っていく、ということが、私にとっての文章を書くこと。

だから「ここで何かを感じる」ことができないと、言葉が出てこない。インプットがたくさんないとアウトプットができないわけでは、私はない。

小さくて、少ないインプットでも、そのあとに、ものすごい強い風なのか、大きな波なのか、何かに背中を押されて、アウトプットが滝のように出てくることも少なくない。

だから、少なくても、小さくても、質のいい(?)、研ぎ澄まされた状態でのインプットが私にとっては必要。

それをたくさんいただくことができる場・機会を、私は積極的に、作っていきたい。

私にとって「感じる」もののほとんどは、自然からいただくもの。

空の色、鳥の声、虫の存在、畑、田んぼ、山の木々、草わら、羊やヤギ、猫、そして、その中で繰り返される人の営みとその積みかさなりである歴史や文化・伝統。

川の水が澄んでいること、冷たいこと、時には痛いこと。天国のような違う世界の中であること、

霧の中に歩く時に霧の水の小さな粒がやわらかいこと、温かいこと。

神社の空気が冷たくて清らかで、私の中にも清らかさが戻ってくること、神様と近く結ばれる感覚があること。

裸足になると、土があったかいこと、やわらかいこと、時には痛くて足を傷つけること。

あたり前の小さなことたちを、実際に自分の体に取り入れて、それを感じるって、一人の存在として、そこに居ることが前提になる。

子供の手を引いて、同じことをしていると、また違う気持ちになるので、真正面から、そのことを受け止めることができない。

子供といるからこそ気がつくことができる世界と、私一人で気がつくことができる世界はずいぶん違って、ありがたいことに、私は今、その両方ができるから、両方の表現をうまく重ねていくことをしたいと思う。

子供がしていることを真似してみよう。そうしたら、私がすでに忘れてしまったことの感覚を知るかもしれないし、そもそも、私が知らないことを、この石徹白で育っている子供達は知っているかもしれない。

表現は、その人のそのタイミングによって、どんどん変わっていくと思う。今の私だから、ここだから、この瞬間だからできる表現を続けていきたい。その時間を、私は大切にしていきたい。それが私の生きる力になるのだから。


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