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「〇〇不要論」不要論

2021日9月28日のツイートまとめ

どんな勉強も占いの肥やし(定期)。

別に全ての科目で満点取れなくたっていいんですよ。嫌いな科目苦手な科目があっていいし、試験では好きな科目得意な科目を武器に戦っていいんですよ。でも「私には嫌いで苦手でやりたくない科目がある」ということが「その科目をやらなくていい」「その科目はなくていい」という理由にはならんのですよ。

すべての科目はどこかしらで誰かしらの役に立っているし、どこかしらで誰かしらがそれを使って世の中を回してますよ。どこかの誰かが学校の勉強に意義や役立ち感を実感できなくたってそれは変わらない。さんすうが苦手な当番の代わりに誰かがさんすうの知識を使って世の中を支え当番を助けてくれている。

「好きで得意でやりたいこと」へ選択的に取り組んで自分の強みを伸ばしていく前に、「『好き得意やりたい』とは関係なく必ず修めるべき基礎事項」があって、「学校の勉強」の大部分はそっちです。別に嫌いでも苦手でもやりたくなくてもいいんですよ。でもやるんですよ。それがあることを知るんですよ

好きにもなれず、得意にもなれず、関心も持てず、やりたいとも思えない。それでも、そんな自分の意欲関心とは別のところでこの世界を支えている知識や技術があり、自分は数学の成績が悪くても数学の成績がいい隣の学友は将来それを活かして世の中を変えるかもしれない。

当番もこども時代本当に理数系の成績が悪かった人間で、自分が好きで得意で意欲を持てて点数を稼げる科目を武器に何とか大学へ潜り込んだ人間だから偉そうなことは言えんのだが。当番の不得意分野が得意な人たちが当番の数学音痴テックぽんこつデジタルネアンデルタール人をカバーしてくれて現在がある。

当番の不得意分野をカバーしてくれる理数系つよつよの皆さんに足を向けては寝られないのである……当番さんぽんこつなもんだからお世話になりっぱなしである……

全員が理数系つよつよになる必要はないし、全員が外国語つよつよになる必要もない。ないのだが、自分の不得意は得意な誰かにカバーしてもらって生きていくわけで、「カバーしてくれる他人へ敬意を持つ」ためにも、「その分野の存在」「その分野に自分は不案内だが友は得意」というのを覚えておきたい。

苦手な科目の存在によって「自分は万能ではない」と知ることができる。

別に苦手なものを克服できなくてもいいけれど「苦手なものがあること」自体には向き合っておいた方がいいし、苦手なものがあることを「こんなものなくてもいいんだから、できない自分が悪いのではないんだ」みたいな変な自己正当化をするのはやめた方がいい。意固地になるのはやめた方がいい。

あの、「自分の好き嫌いや得手不得手で『何とかは役に立たない、何とかは要らない』と言わない方がいい」っていうのはですね、「自分の嫌いな食べ物を『こんなの人間の食うものではない』みたいに言うのはやめた方がいいですよ」と同じですよ。あなたが嫌いなら嫌いで、苦手なら苦手でいいんですよ。

あなたが嫌いな食べ物が好きな人だって人間だし、あなたがコノワタ(ナマコの内臓)を嫌いであっても、「コノワタは人間の食べ物ではない」ことにはならないし、「コノワタを好んで食べる人は人間ではない」ことにもならないみたいなもんです。無駄に攻撃的にならない方がよござんす。

まあ当番さんもコノワタは好きじゃないですけど。

2019年にも当番似たようなことをツイートしていた。以下、そのまとめ。

【2019年1月14日】
「○○不要論者」は「自分が不得意だった教科」については軽々に不要だと言って、「自分が得意だったり飯の種にしていたりすること」については決して不要だとは言わない。「何々になる人だけが○○をやればいい、でも他の『一般人』には○○なんか不要だよね」は「誰に何が不要と本人を差し置いて言いたがる大人にロクな奴ァいねえ」と私の中で毒親アラートが鳴る。

自分の萌えは他人の萎え、他人の萌えは自分の萎え。自分の捨て科目は他人の売り科目、他人の捨て科目は自分の売り科目。自分が不得意または嫌いなものを自分に不要だとするのは自分に不得意があるのを認められない幼児性。自分にとっての不要と世の中にとっての不要を混同するのは主語がでかい。

面白さがわからず、不得手で成績が悪くとも一応必須科目として様々な教科に触れておくのは、一部の本当に優秀でその分野の専門家になる人以外の「一般人」は結局「自分の不得手な分野を得意とする人」と仕事をしていくことになるからだ。「一般人」こそ様々なものをちょっとずつ知っとかないと詰むんだ。

「三角関数なんか不要だ」「古典なんか不要だ」当番は恥ずかしながらどちらも胸を張れるほどの成績じゃなかった。しかしどこかのエライヒトたちが三角関数やらや古典やらを「不要」と言うのを見聞きすると「この人たちはこの先誰と仕事をする気なんだ?」と思うよ。

いや、「エライヒトたちはこの先誰と仕事をしていく気なんだ?」より心配なのは「そうやって不要不要で学習内容を減らされた若い人たちがこれから誰を相手に仕事をしていくことを想定してそんな寝言を言っているんだ?」ということだよ。

当番が英語と国語と音楽しか取柄のない、数学で200点満点中27点を取る高校生だった頃に当番の英語の先生はおっしゃった。「あなたがたが歴史や数学を捨てて得意な科目に賭けるのはあなたがたの人生だから勝手だ。でも覚えておきなさい、あなたがたの将来の仕事相手は歴史や数学をやっている」
 
当番の母校は一応進学校というやつであったが、当番の恩師たちの中で「色々な科目に取り組みなさい、不得意でも知る努力はなさい、あなたが『捨て』た科目をやり続けてきた人たちと将来仕事をするのだから」と言い続けたのは、全生徒にとって「受験科目」であり「捨てる」わけもない英語の先生だった。

「英語だけが出来て何になると思っているの、英語で語りあうことになる内容を勉強しないで英語をやって何ができると思っているの。歴史をやりなさい、数学をやりなさい、古典を学びなさい、沢山の本を読み映画を見なさい、あなたがたが将来仕事をする相手はそれをやっている」と我が恩師は説いた。

「不得意な科目があっても得意科目を伸ばしてそれを武器に世渡りをしていけること」を否定はしないよ。得意科目は大いに伸ばすべきだし、不得意科目があることで人格否定されたりする悪習は失くすべき。それはそれとして「他の誰かの得意科目になり得るもの」を不要呼ばわりする暴言も失くすべき。

知識とか教養とか技能とかいうものは「武器」なのよね。そう言って悪ければ「武器『にも』なり得るもの」なのよね。誰がどんな武器の使い手になり得るかなんて早いうちからわかるものじゃない。幅広く色々なものに接しておくこと、自分には扱いづらいものを巧みに使う人がいるのを見ておくことが大事。

殺生殺傷がお嫌いな向きには「得意とする魔法」でも「強み」でも、ご不快にならないお好きな呼びかたをしていただいて結構なんだけど。世の中じゃ、異なる強み持ちとパーティーを組んでクエストに出るわけさ。縛りプレイしてるんじゃない限り勇者5人とか短刀ばっかり五振とかで遠征行くってこたぁない。

別に、自分は勇者に特化するとか「俺は刺すしか能がない」とかになるのは構わない。でも勇者や槍は僧侶とか薙刀とかと仕事する。「回復魔法不要論を主張する勇者」とか「薙刀不要論者の槍」とかと仕事したくねーなーと思うし、自分の担当外の仕事をよく知らずに無茶な要求する奴とも仕事したくねーなー。

「自分の強みを伸ばす」は「自分の強み以外の分野に無知のままでいても構わない」っていう意味じゃない。「自分の強みや関心事以外のことに無知でいる」というのは「他人に自分の不得意分野を依存している癖に、その分野に無知ゆえに非現実的な幻想を持ち無茶な要求をするヤツになる」ってことだから。

たとえばの話、家庭科とか保健体育。「自分には家庭科も保健体育も必要ない。自分は料理はしないし生殖や健康管理や衛生の知識は要らない。自分は受験科目の勉強だけできて高給取りになれば、後は誰かに日常生活の雑務を投げておける」と思う人がその雑務にあまりにも無知で、丸投げ先に無茶な要求をする。

実際「自分の得意分野以外はまるっきり無知なおえらいさんが『自分は特定の分野のおえらいさんである』だけを理由に家庭科方面や保健体育方面、つまり家事育児健康管理方面に対して非現実的な妄想を元に無茶苦茶な寝言を吐く」って日常茶飯事じゃないの最近さ。

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