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サンタクロースの話・発端

2017年12月25日のツイートまとめ。発端は長いことサンタクロースを信じ(させ)ていたこどもがとうとう「サンタクロースはいない」と告げられて大ショックを受けたという投稿がバズっていたことと、それに付随した「そもそもおとながこどもに『サンタクロースは存在する』と信じさせることの是非」でタイムラインが賑わっていたこと。

【サンタクロースと『ごんぎつね』】
中学生まで実在を信じていたサンタクロースが実は親だと知って大泣きするお子さんは、主に何が理由で泣くのだろうか。いると思った人物がいないことに? 長年親に騙されていた悔しさに? ヒーローショーのヒーローがただの衣装を着た役者だとわかっても泣くのだろうか。

いや「いると思ったものがいないと知ってがっかりする」はそりゃするだろうよと思うんだ。ただ中学生のお子さんがご学友に心配されるほど「大泣き」するって普段からよっぽど激しやすい性質ならともかく「信じていてショックだったにせよ、どんな告げかたをしたらそこまで泣くのだ?」と思うんだ。

RTで回ってきたあの話、泣いた当事者が当時を振り返って語っているから詳細がわからないけれど(どういう告げかただったのか他)。心配して連絡してきたお友達に、お母様が「慰めてあげて」と言った、というエピソードで私ちょっと背筋が冷たくなった。「慰めてあげて」って!

親がサンタクロースのネタばらしをしたことで、我が子が泣いてるんだよね? お友達に心配されるほど泣いたんだよね? 「(親のしたことで)お友達のあなたにまで心配かけてごめんね/心配してくれてありがとうね」じゃなくて「(親が泣かせてしまったんだけど友達のあなたが)慰めてあげて」なの?

百万歩ゆずって泣かせた親ではない、たとえば顧問の先生が言うならわかる。泣かせた親が言うことじゃないわな。何その他人事感。非当事者感。

いや泣いた子が覚えてないか語らないかだけで「ごめんね」とか「ありがとう」とか言ってたかもしれないけど、泣いた子の思い出語りに「親が友達に『(サンタクロースのネタばらしがショックで泣いてるうちの子を)慰めてあげて』と言った」が出るって相当のインパクトだと思うよ……

「サンタクロースはいなくて、今までサンタクロースからという名目で贈られていたのは親が用意したプレゼントだよ」→「ごん(親)、お前だったのか。いつもくり(スマスブレゼント)をくれたのは…」ごん(親)はぐったりしながらうなずきました。火縄銃の口からはまだ青い煙が

【信じている子もいない子も】
「サンタクロースを信じ続ける子」にも「サンタクロースを信じない子」も祝福されますように。

サンタを信じ続ける子ばかりが「かわいい」「純粋だ」と大人に持て囃され、持て囃された子が自分もその気になってしまって「サンタはいない、あれは親だ」という子に「そんなことを言うから来ないんだ、私はいい子だからサンタは来るんだ」と言い放って互いに嫌な思いをすることがなくなりますように。

クリスマスに誰がどんなプレゼントをこどもにくれるか、ってとてもデリケートな話題なんだよ。親でもサンタクロースでも貰えるだけマシだろ、って言いたいこどもだっている。

「疑わず信じてよい子にしていればサンタクロースが必ず来て望みのものをくれる。来ないなら信じる心成分かよい子成分のどちらかが不足なのだ。私はどちらも足りているから絶対にサンタクロースは来るのだ」って言い放てちゃう子って「よい子」なんですかね、ってさ……

たとえ「よい子」であってもそういう子とは「よいともだち」にはなれないな、と思うよ私は。

【サンタクロースとコウノトリ】
「サンタクロース何歳になったらネタばらしするか問題」と「赤ちゃんはコウノトリが運んでくるのではないと何歳になったらきちんと教えるか問題」って、似ている。

普段から何となくアンテナ張ってるお子さんは親がかしこまって「……あのね」と切りだす年頃には「うん、それもう知ってる。でも気にしてくれてありがとね」で済んじゃったりするのだが、そういうアンテナ張りが生来不得手な特質のお子さんは教えない限りずっと情報更新できない可能性がある。

親が「何となくアンテナ張ってアップデートできたひと」で、親がそうだから子も何となくアンテナ立ててるだろうと思っていたらお子さんはアンテナ立ちにくい感じのひとだった、というときに情報事故は起こりやすい気がする。気がするだけだが。

【サンタクロースとティンカー・ベル】
サンタクロース信じる信じない問題からの連想で「ピーター・パン」を思い出し。瀕死のティンカー・ベルを救うために妖精を信じるみんなに拍手をしてほしいと舞台から(ページの間から)観客(読者)のこどもへ呼びかける場面があるよね(ディズニー版にはなかったっけか?)。

私、幼稚園の頃着ぐるみミュージカルの「ピーター・パン」観に行ったのよ。幼稚園で希望者募って行く企画。それがピーター・パン初体験でその後原作を読み、ディズニー版はいちばん後。まあそれはいいとして、あの場面、たとえ観客がひとりも拍手しなくてもたぶん拍手の効果音は入れるのよね。

客席は暗いし、誰が拍手して誰が拍手しないかはそうそうわからない。幼稚園児くらいなら、たとえ話の筋が多少わからなくとも保護者が拍手をし、周囲に拍手の音が響けば釣られて拍手をする子もいる。きっちり話の筋を理解してティンカー・ベルが死んじゃう!と必死に拍手しちゃう園児も無論いる。

話の展開上、ティンカー・ベルは必ず生き返りはするんだけど、「ピーター・パン」のあれに乗ることができてしまった幼稚園児は、おとなの嘘の片棒を担いで妖精を信じさせる側に回ってしまったと言えるんだろうか。私は手を叩いて、必死に叩いてしまった側の元園児なのだが。

数年後、原作読んだ頃もまだ手を叩いちゃったよね仔当番(8歳)。拍手せずに読み進めることもできる、劇場でだって拍手せずに見続けることはできる、でも毎回ティンクが生き返るのは私が拍手しなくても別のこどもが拍手したからだと思っていたよねまだ8歳だったからね。

ティンカー・ベルもサンタクロースも似たようなもんだと私は思っている。クリスマスに関しては私の家庭はあまり行事に熱心ではなかったのと、私が早々に「もらう側」から「仕掛ける側」に回ってしまったのとで(クリスマス料理は私が作る)、サンタクロースを「信じる」という時期は本当に短かったし。

「その存在を本気で信じるこどもがいる限り、サンタクロースは存在する」は「その存在を本気で信じるこどもがいる限り、妖精は存在する」に近い。「ピーター・パン」では「人間のこどもが妖精の存在を信じなくなると妖精は死ぬ」と言う。瀕死のティンクを生かすのは今これを見ている君の拍手だと。

そこまでつらつら思い返していたときに、うちの射手水星めが言ったのだ。

4室射手座水星「ねえ、思えばティンカー・ベルと拍手のあれってクラウドファンディング?」

1室乙女座月「やめて!!!!!」

【こどもも色々あってだな】
私、そこまでこどもが無邪気で純真な存在だとは思っていないんだな。ちょっとずるい方向に頭の回る子なら「まだサンタさんを信じていてほしいおとな」の前でカマトトぶるくらいのことはするからな、こども。信じたがったり疑ってみたり確かめようとしたり、プレゼント見つけたけど黙っておこうとしたり。

「隠しておいたプレゼントを見つけてしまったけれど、パパとママは気付かれていないと思っているだろうから驚いたふりをすることにする」と言ったのは7歳当時の我が妹だ。クリスマスではなく誕生日だったけれどね。それを姉の私に打ち明けて安全だと思うあたりがまだ頭が回りきっていないのだが。

だって、そのプレゼントを両親が選び、そこへ隠すのに立ち会っていたもの私。妹はそこまでは知らない。「サプライズに驚いてみせた方がウケがいい」と私の前で計算を披露しちゃう妹も「そう」と答えるに留めた私も、そんなに純真で無邪気とは言えたもんじゃない。

当日、わざとらしいくらいに喜んでみせる妹の姿がちょっとあざとすぎて、そんなにやったらバレる…と思っていたが、多分あれバレてたろうなあ。

というかサンタクロースの存在を疑いだした我が子を見て「とうとう疑いだしたか…」と成長を感じたり「もう少し信じていてくれるかと思ったけどここまでかあ…」と幼児時代の終わりを惜しんだり「いい加減卒業してくれないと我らもきついんだけど、来年中学生だぞ?」という親御さんは見るけど、サンタクロースの実在を疑いだした子を激しく叱りつけたり、信じることを強制したり、嘘に嘘を重ねる親御さんを私の身近で観測したことがなくてだな…TVで「フィンランドからサンタが来日」とかやってたり「サンタクロースから手紙がくるサービス」があったりするのは見るけどさ……

NORADでのサンタ追跡は私が押しも押されもせぬおばちゃんになってしまってから始まったし、完全にジョーク的サービスと認識してしまっているし(NORADのサンタ追跡を見られる子ならサンタをガチブツリテキに実在する何かだとマルっと信じるほど幼くはなかろうよ、と踏んでいる)。

更に、サンタクロースが物理的に常人と同じ身体能力しか持たないふとましいおじさんないしはおじいさんなのか?という問題もある。妖精だとか妖怪だとか天使だとか神様だとかいう超自然のアレを持ち出すと話はややこしくなってくるのだ。だいたいトナカイが空を飛ぶし橇も飛ぶし。

そして、まだサンタクロースを信じていてほしいと願うおとなだけではなく、まだサンタクロースを信じていたいこどももまた、自分の信じていたい世界観のために超アクロバットな理屈をひねり出すのだ。サンタクロースはおとなの作り話かもしれん。しかし作り話はこどもだってするのだ。

「サンタクロースなんかいない、物理的にあり得ない、包装紙がデパートのだった、領収証が出てきた。サンタクロースがいるなんてコドモダマシだ」こどもがそう言って窘められるのは、私の狭い観測範囲の限りで申し訳ないが「まだ信じている年頃の弟妹がいる兄姉」くらいのものだ。

「サンタクロースはいない、あれは親だ」と知ってしまった子が、まだサンタクロースの実在を信じている同い年あるいは年下の子と言い争いをして相手を泣かせてしまった場合は叱られるが、それは「サンタを疑ったこと」を叱られているのではなく「サンタを信じる子を泣かせたこと」を叱られているのだ。

「自分がサンタを疑いだしたから、あり得ないと確信したから」と言って「まだサンタを信じていたい他の子」の世界観を次々論破していったら、そりゃ自分の世界観を脅かされた幼児はショックを受けるし泣く。クリスマス前という「思いやり」の重んじられる時期にそれをやれば、まあ叱られはするだろうよ。

私はこども同士の「まだサンタクロースなんか信じてるのかよ! あり得ないだろガキか!」も「サンタクロースいるもん! いるんだもん!」も両方大ッキライなんだよ。そこ、争うな離れとけケーキが不味くなるだろうがクリスマスはプレゼントもらうだけの日じゃないぞズモモモモ……! となる。

クリスマスの意味と、サンタクロースというものの存在と自分との折り合いは本来自分自身でつけるもの。サンタクロースは「信じるか信じないか(あり得るかあり得ないか)」で語るものではなく「自分にとってどんな存在か」で語るもの。

「自分にとってあり得ない作り話。なぜなら一晩で世界中を回るなんて物理的に無理だから」であるなら、そのひとにとってはサンタクロースはあり得ない作り話。ほかのひとにとっては、サンタクロースはまた別の物語。全てのひとが同じひとつのサンタクロース観を共有する必要も強制される謂れもない。

これがゾウやイヌやネコや人間についての話だったら、誰もがある程度一定の共通した認識を持ってないと困るんだけどさ。たとえば「ゾウは卵からは生まれない」とか「ゾウはふつう空を飛ばない」とか。でもなにしろサンタクロースだからね。

結局サンタクロースを中学生まで信じていて親御さんにネタばらしされて大泣きしたお子さんが、サンタクロースの何をどう信じていたのかも、親御さんが正確にはどういう告げかたをしたのかも、大泣きしたお子さんが何に傷つき何を惜しんで泣いたのかもツイート読んでるだけの部外者にはわからんのだ。

「今年からサンタさんのプレゼントはなし」に泣いたのか、「いい加減サンタを信じるのはこどもっぽい」と言われて泣いたのか、「今までサンタを信じる私を皆嗤っていたに違いない」と思って泣いたのか、「親が十何年も私を騙していた! 悔しい!」と泣いたのか、説明がないからわかるわけがないのだ。

元の話でいちばん引っかかったことは「ちょっと親御さんよ、自分がネタばらしして我が子が受けたショックのフォローをシレッとお子さんのご学友にぶん投げるんじゃねえですよご学友だって困っちゃうだろ」ということです繰り返しになるけれど。あと、その後当人がどう折り合いつけたのかを知りたい。

私の「クリスマスは贈り物を貰える日ではなくて、あげる日」というのは私の個人的なクリスマス(及びサンタクロース)との折り合いのつけかたでな、私に子がいたとして、その子がサンタクロースを信じていたかったら「クリスマスは誰か大切なひとを思う日」みたいな話は少なくとも暫くできないわけだ。

幸か不幸か私には子がおらぬ。しかし私に子がいて、もしも子がサンタクロースを信じて心待ちにするようになったら(だって親の私が教えるとは限らんのだよ、保育園幼稚園やTVの幼児番組や絵本から勝手に仕入れてくる可能性もある)暫くは子の期待に付き合って匿名で正体不明の贈り主を演じるかもしれぬ。

【サンタクロースと鼠小僧次郎吉】
私はサンタクロースの意義は「匿名の援助者であること」にあると思っている
からな。贈り主が自分と知られなくても構わない、面と向かって感謝されなくても構わない。ただ望むものを届けられればそれでいい。母ちゃんが必死こいてやりくりして母ちゃんが調達した、と知られなくても(暫くは)構わない。

子が大きくなってきたら徐々に「現実生活は生身の人間が回しているってことも知ってね。あなたに贈り物を届けていたひとには顔も名前もそれぞれの人生もあるよ」ということを告げては行くだろうけれど。ずっと子のサンタではいられない。いつか「ごん、お前だったのか」という日が来る。

貧しくて身売りをするしかない娘が住む家の煙突から銀貨の袋を放り込むニコラウス司祭、って「鼠小僧次郎吉」みたいだよねと、思うの(私は洋物児童書どっぷり育ちで、かつTV時代劇どっぷり育ちでもある)。司祭が投げ入れたのは盗んだお金ではないというだけで(しかし司祭様どこから資金調達を?)。

ところでTVや映画の鼠小僧次郎吉は千両箱を小脇に抱えて軽々と瓦屋根の上を走って逃げるけれど、いちばん小さな千両箱でも中身が詰まっていたらめちゃくちゃ重く、小脇に抱えて土塀や瓦屋根の上を走って逃げるのは無理なんだそうだ。サンタクロースが一晩で世界一周はムリだというのに似てない?

サンタクロースの元ネタのひとつ、聖ニコラウスと鼠小僧次郎吉を一緒くたにしたら各方面からお叱りを受けそうだけど。正体を隠して、夜中にこっそり施しをしていくという意味で私の中ではサンタクロースと鼠小僧って隣り合わせの棚にいる感じなのよね。あと必殺仕事人とか月光仮面とか。

どこの誰だか知らないけれど誰もがみんな知っている(古い)(一応、当番は月光仮面リアルタイム世代ではないです)(当番父が子当番をあやすのに月光仮面の歌を歌うので覚えただけです)

【サンタクロースとパフスリーブ】
私、4歳の秋に引っ越しをして途中で幼稚園を変わっているんだ。転園先は、そこしか空きがないというのでお寺さん附属園でね。毎週月曜日はお堂でお経を読むようなところだったから「クリスマス会」とかないし「クリスマス関連の歌」も歌わないんだ。「きよしこの夜」とか知ったの、小学校入ってから。

私が「クリスマス」をいつ何で知ったのか、幼稚園ではないことは確か。図書館の絵本か、TVの幼児番組か、あるいはTVドラマ『大草原の小さな家』か…もっとありそうなのはアニメ『赤毛のアン』直撃世代なので、それでかもしれない。あのマシュウが頑張って贈るふくらんだ袖の服ね。

靴下を吊るす話も出なければサンタクロースのサの字もないわけよ『赤毛のアン』には。単にクリスマスだからアンが欲しがるきれいな服をやろうと人見知りのマシュウが奮闘する話なのよ。それを幼稚園時代見ていたの。なお『大草原の小さな家』シリーズにはサンタクロースのエピソードがある。

サンタクロースが登場し、靴下を吊って眠るようなクリスマスは、私いつどこで知ったんだったか。小学校1年か2年だったと思うのよ。そこから2年くらいベッドに靴下吊るしたもの。自分たちの靴下では小さすぎるからって、父の登山用靴下を借りたの。朝起きたらメリーのチョコレートが詰まってた。

2年目のクリスマスには、母が端切れで靴下型クリスマス用袋を縫ってくれたんだ。その中身も飴とチョコレート。ほかにイベント事恒例の本を貰っていた。穴あきクッキーを焼いてクリスマスツリーに吊ったりとかもした。

靴下吊るす系のクリスマス演出は数年でおしまいになった。小学校高学年になると近所のこども同士でお呼ばれするようになったから。その後は私が料理に目覚めて本で読むだけだったあれこれを再現するのに凝りだしてサンタクロースそっちのけ。クリスマスといったらオーブン料理一色。

そうだ『赤毛のアン』にもサンタクロースなんか出てこないんだよ。アンがいちばん喜ぶ贈り物を贈るのはマシュウなんだよ。人見知りで女性恐怖症なのに頑張って買い物を試み、うまくいかなくてリンドのおばさんに頼るマシュウ尊い。マリラに言えば反対するからってひとりで行動するマシュウ尊い。

クリスマスには大事なひとが喜ぶものを贈りたい、というのが大事で、他は私どうでもいいんだわ。我が子がサンタクロースを信じていてサンタクロースからの贈り物を待ち望むなら、たとえそれがどんなに非合理で地上一尺な夢物語でもサンタクロースからの贈り物として贈るよ。

だってね、サンタクロースを待ち望むこどもにとって「サンタクロースが贈り物をくれる」っていうのはアン・シャーリーにとっての「ふくらんだ袖の服」と同じなんだもの。

マリラなら「それは非実用的で虚栄心と空想癖を助長するだけのくだらないものだ」と言うだろうけれど、マシュウはそのくだらない虚栄心と空想癖も含めてアンのことが好きだし、ばかげた品物であってもアンが欲しがっているのを知っているからふくらんだ袖の服を贈るために走るんだよ。

サンタクロースを信じる、サンタクロースを待ち望むということは「おとなの作り話やおとなのこどもに対する夢をこどもに押しつけている」パターンだけでは決してない。「こどもの作り話やこどもの夢におとなが付き合う」パターンのサンタクロースもあるんだ

だけど、何歳までそれを続けられるか?は各家庭の色々な兼ね合いがあるだろうし。中学生でもサンタクロースガチ勢なのが遅いのか早いのか、ようわからん。グリーンゲイブルズでのクリスマス時は、アン11歳だし。

11歳と言えばハリー・ポッターにもサンタクロースは出てこない。魔法使いがいて妖精がいて幽霊がいて、クリスマスは祝わないのかと思えばクリスマスディナーを食べてツリー飾って祝うけれどサンタクロースは出ない。家族や友達と誰から誰にと明確にわかる贈り物を交換するだけ。

クリスマスの贈り物としてソックスの話は出てくるけれど、クリスマスストッキングを暖炉やベッドに吊るす話はハリー・ポッターには登場しない。クリスマスプレゼントはふくろう便でやってくるか、ドビーの場合は直接渡しに来る。サンタクロースの出る幕がない。

…というように、ひとくちにこども時代のクリスマスとクリスマスプレゼントのエピソードと言ってもそこにサンタクロースはいたりいなかったりするんだ、ってことがわかるからクリスマスエピソードがあるような作品を複数読み比べてみると面白いよ、ってことかな、結びは。

『ちいさいモモちゃん』シリーズにはサンタクロースが登場する。『モモちゃんとアカネちゃん』だったかな。ママがアカネちゃんに編んだベビーソックスのタッタちゃんとタアタちゃんが、自分たちだってクリスマスプレゼントを入れられる!と頑張ってふくらんでクマのぬいぐるみを入れてもらうんだ。

【サンタクロースと浦島太郎とくるみ割り人形】
26日になってもなおサンタクロースにつらつら思いを馳せている。私が親あるいはサンタクロースならサンタクロース追跡システムに子が気を取られている隙に贈り物を置くだろうなとか(サンタクロース陽動作戦)。サンタクロース問題は広げた風呂敷のたたみかた問題でありコウノトリ問題でもある、とか。

風呂敷広げるなら畳みかたと畳むタイミングをはかって行こうな、という話でもあるし、おとなの畳みかた如何でショックを受けるこどもがいる一方でおとなが知らないうちに自分で畳みかたを見つけるこどももいる。今から畳みなおしてもいいし、今から風呂敷を手に入れてもいい。

グルメテーブルかけにもなり、タイムふろしきにもなり、たまには忍者の覆面に、空飛ぶ絨毯に、透明マントにもなった風呂敷がサンタクロースであり、またサンタは同時にアン・シャーリーの「ふくらんだ袖の服」でもあるんだ。それは非現実的で非実用的で、なくても生きてはいける。でもこどもの夢なんだ。

たとえ実際は3日で飽きてコスパ最悪でも、手にしてみてつくづくくだらなかったとわかっても、そのバカげて非現実的で非実用的で不必要でさえあるかもしれないこどもの望みを拾いあげてくれる誰かがいる(かつていた)、ということが重要だったりはするのだ

占星術でサンタクロースは何の管轄下か、と言ったら木星だろうね。広げた風呂敷という意味で。ふくらんだ袖の服という意味で。非現実的で非実用的で、なくても生きてはいけるかもしれないもの、浪費であり無駄であり所詮は贅沢品かもしれない、でっぷり肥えた虚像のおじさん。

だけどその大風呂敷がマントになることがある。その虚像が支えになることもある。木星は射手座と魚座の大家さんだ。現実的だが冷酷でもある土星に支配される厳しい冬の二ヶ月、山羊座と水瓶座を両側から挟んでいる。厳冬へ突入する前と厳冬を生き抜いた後には、ちょっぴりカロリーと夢が要るのだ。

浦島太郎は亀に連れられて竜宮城で乙姫様に迎えられタイやヒラメの舞い踊りを見る。バレエ「くるみ割り人形」のクララはクリスマスの夜、くるみ割り人形に連れられてお菓子の国へ行きドラジェの(金平糖の)精に迎えられコーヒーやチョコレートの舞い踊りを楽しむ……という夢を見る。夢と魔法とカロリーの王国。

カロリーは危険。カロリーはおいしい。そのひと匙がデブ活であり、そのひと匙が薬をラクに飲むためのお砂糖でもあるのだ。匙加減ひとつ。

バレエ『くるみ割り人形』のクララは一夜お菓子の国の夢を見て明ければ彼女の現実へ帰って行けるけれど、「浦島太郎」は竜宮城から帰ってみれば三十年だか三百年だか経ってしまっている。しかも玉手箱を開けた途端に止まっていた歳月分いちどに浴びて老人になってしまう。

中学生で親からサンタクロースのネタばらしをされて友達に心配されるほど大泣きしてしまった元お子さんは、だから浦島太郎だと思うんだよ私は。周りの同い年の子たちはクララのようにやがて短い夢から醒めていったけれど、その子はちょっと夢と魔法(とカロリー)の王国に長く居すぎた。

そして同意なしで強制的に、数年分一気に老いさせられたのだ。玉手箱の煙を浴びたのだ。

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