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こどもとうみ「自分だけの物差しを持とう!」

 教育の現場において、子どもたちの安全を守ることは百も承知。当たり前に決まってる。
 では、どうやって子どもの安全を守るのか?
 あれダメこれダメとルールを山ほど作るのか?
 子どもたちの動きを最小限に抑えれば守れるのか?
 子どもの人数を上回る大人の人数でガン見しながら見守る?
 もしくは見張るのか?
 危ないことを最初にぜーーーーーんぶ伝えておくのか?
 安全なカプセルに入れておくのか?

 危険を取り除くことが、安全。そう思いがちである。年齢によっては、そういう場面ももちろんあるけれど、大人が取り除くだけで良いのか?
とりわけ自然の中では取り除くことは不可能である。

 だから自然の中に出ていくことは「危険行為」というレッテルを貼られやすい。海へ出ていくことは危険レベルマックスということになってしまう。

 子どもの安全を大人が守る。だけでなく、子ども自身も自分の身の安全を守れる人として学んで育つべきである。
 安全とは「受容できないリスクがないこと」と定義されている。
言い換えると、安全な状態であっても「受容できるリスクは存在している」と言えるという記述がある。 
 私たち大人は、これまでこの受容できるリスクの中で、無事に今まで生き延びて来られた。それはリスクの中での経験からの学びがあったからだと思う。

 少なからずとも、転んで痛い思いをして、たんこぶ作ったり、擦り傷を負ったり、治って来た頃にかさぶたを剥いたら思ったより血が出ちゃってびっくりしたり、それでもまたやっぱり剥きたくなっちゃったり、そんなつもりがなくても階段から転けたり、そんなつもりがなくても弁慶の泣き所をタンスの引き出しにぶつけたり、そんなつもりがなくてもドアに指を挟んだり、それはもう数え切れないほどの想定外の小さな「ドキッ」としたことや、「イタッ」と思ったことや、「ヒヤッ」とした経験をして学んだから、大きな致命傷を負わずに今生きているのだと思う。

 なので、まずはやってみてごらん。なのだ。
 それは海でも同じこと。

 そんなこと言っても「海」は一発で死に至ることがある。あ〜あ、失敗しちゃったね。では済まない。海での怖さは、水の中では息ができないこと。それが死に直結する。「足がつかない!怖い!」と初めて思った経験だけでも慎重になる。慎重になるということは、自分の身を守ることの始まり。だから、弁慶の泣き所をぶつけるよりも強烈に心と身体に残る経験になる。海での「ドキッ」「ヒヤッ」の経験を丁寧に重ねていくことは、「自分だけの物差し」を手に入れる最高の環境という訳だ。それを持たないと「死」に直結する環境にあるのが海だからだ。
 誰かが大丈夫だよ〜と言っても、「自分だけの物差し」でしっかりと測って、いやいやそう言いますけどね〜私はこれ以上入らないよ!だったり、何が大丈夫なのか自分で測った上で入るという判断をそれぞれ自分自身ですることが出来るようになる。

 大人も子どもがその「自分だけの物差し」で判断したことを尊重するべきである。よく大人が使う「せっかくなのに」これは最も必要のない言葉である。(気持ちは分かるけどね 笑)

 「自分だけの物差し」を持つことは、命を守ることだけではなく、自分の生きる道を決める道具にもなる。自分で決めることが出来るということは、自分の人生を自分の足で歩ける人になるということ。

 「自分だけの物差し」を持っていないと、「誰かさんの物差し」で測られて、もっとこうした方がいいんじゃない?それよりこっちの方がいいんじゃない?と迷わされることもある。自分の人生を「誰かさんの物差し」で測られて、あーだこーだ言われたくないでしょ?

 など他にも「海はこれまでみたことのないほど広い砂場だ!」とか海に行くことの素晴らしさをコンコンと語り、説得したけれど、既存の園では難しく、、、、、それなら!と2010年の8月に自分で小さくても海に毎日行けるような園を作ろう!!と決心したのである。なぜ8月だったのか?それは、7年ほど介護生活を送っていた母を見送ったからである。一人っ子の私は、残った父に私が新しいチャレンジをするという心配事を持ってもらうことで、長生きしてもらおう!という手段に出た。

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