
『新月の音』第1部1章
重藤小晴は決めかねていた。保険会社に就職するか、一度は大学院に進学し、数学という分野で学術論文を書いて修士号を取得するか、彼女は東京大学の学部三年生には珍しくない悩みを抱えていた。
彼女には婚約者もいた。それは東京大学の学部生にとって珍しい属性ではあった。しかし彼女と同じ二十代の若者においては珍しいことに、婚約は彼女の生涯計画に何の判断制約も課さなかった。彼女が青年期や壮年期に地球の何処で何をしていようと、米国で技術研究をする彼の生活は何も変わらなかった。強いて言えば、小晴が日本にいれば、それも東京にいれば、彼に都合のいいことも多少はあるというくらいであったが、彼にとって信用できる人間を雇うことは些細なことであった。
そうであるから、重藤小晴は身の振り方に迷っていた。強いて婚約に関して制約を上げれば、企業で働くよりは修士課程の方が時間に融通が利くので、婚約者の都合に合わせやすいだろうという程度のことだった。そのような制約で身の振り方を決めるべきでないことは、彼女らの二人とも理解していた。
結局のところ重藤小晴は背景こそ特殊ではあったが、彼女と同種の学生において普遍的な、青年期に典型的な葛藤を抱えていたのである。強いて言えば、彼女は自立に関心があった。婚約者に人生を委ねることだけはならないと感じていた。望めば彼は引き受けたであろうが、彼女の人間性はそれを辞した。とは言え、数学を専攻する学生の場合、学部を卒業するだけで終わらず、修士号を得てから求職する方が、労働市場で好まれたのは確かであった。
「重藤さんなら大丈夫だよ」彩田守裕が言った。
大学の研究棟の談話スペースで、彼たちは二人で話していた。小晴は就職活動中の学生らしく、白いブラウスの上に黒いジャケットを着ていた。
「いや、そうじゃなくてね………こう、気迫が足りないっていうかな」
彩田青年は茶化す様子もなく耳を傾けていた。
「別に私、数学に全てを懸けて、骨身を削り切るだけの気概がないから。…………そうまでして、気になる問題もないし」
「……なるほど。…………でも修士課程でそこまで求められないんじゃないかな」
「…そうかもしれないけど、……でも修了までやりきれるか分からないし。下手に留年したり、……できなくて退学することになるくらいなら、学部で就職してしまう方がいい気がして」
「……それについては、僕も不安に思うけど……、……まあ修士までなら頑張れば…という世界ではあるし。……それに確かなことは言えないけれど、……重藤さんができないイメージは沸かないんだよな」
「私を買いかぶってるよ」
それからは幾つかの先輩学生の事例を共有し合い、共通の知人であり、同じ学年に在籍した学生達の近況を伝えあった。そしてお互いが何の分野を研究し得るかを示唆し合った。
九月の終わりのことであった。部屋を去る重藤はジャケットの下に同じ黒で膝丈のスカートを着ていた。彼女はパンツにすることも考えたが、当為がそれを許さなかった。踵が多少は高い靴を、やはり当為のために一応は履いていたが、その踵の下の棒が床を叩く音は耳に慣れなかった。
「この靴の生存時間はどれくらいだろうね」
「どれくらいなんだろう」
「靴の保険数理でもやろうかな。平均歩数とかがパラメータとしてどう絡むかとか」
「先行研究がありそうでなさそうで、やっぱりある気もするなあ」
研究科棟を出て彩田が言った。「見つかるよ。重藤さんがやるべきこと」
「……ありがとう。手に負えるものであって欲しいんだけど」
彩田は図書館へ、小晴は駅へ向かった。