【小説】カラマーゾフの姪:ガチョウたち(3)
○舞台:2020年の喫茶店
○一台のパソコンの周りに四人の若者。
○人物
・彩田守裕:大学院で数学を研究する修士2年生。
・曲丘珠玖:コンピュータに詳しいフリーランスの女性。彩田の最近の友達。同い年。
・弥生恵:彩田の従弟。大学2年生。パソコンで困って相談。
・小芳勝市:弥生の友達。曲丘にテストされている。
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小芳は黙って画面を見つめては、静止してしまった。
「情報技術で生きていくなら、自分で調べなさい。この世界ではそうやって生きていくんですよ。必ず論理は保障されている。知らない論理が存在するだけ。だからそれを自分の手で切り開いていく、それが私達の世界ですよ」
小芳の表情は変わらなかったが、それでも曲丘の目元は見ていた。彩田は………曲丘の言葉が当世の教育学に照らしても、教育効果も生産的合理性も認められない言葉だと考えたが——曲丘と小芳の間に挿し挟む言葉を口にできなかった。弥生は視線を定められず、しかし頬は硬くしていた。
「……今の状況で何ができるのか、インターネットで調べなさい。…問題に向き合うのはあなた一人ですが、仲間はいるんですよ。自分の無知を補ってくれる誰かは。…それが、私達の世界ですよ」小芳と目が合い、曲丘は微かな溜息を吐いた。「一度深呼吸して、目の前にどんな問題が起きているのか、一歩引いて見直してみなさい。何をどう調べるかくらいは分かるかもしれませんからね」
小芳青年は弥生よりも目を据えて画面を見つめた。それから自身の携帯端末で調べ物を始めた。
「彩田さんごめんなさい。…紅茶を頼めますか」曲丘は小芳を見ながら、彩田には何度か視線を向けながら言った。「恵さんは自分の端末を見ていたいでしょうし、私も彼を監視しておきたいので、……申し訳ありませんが」
「いいですよ」彩田は曖昧になっていた注意が現在に焦点を結んだように感じた。そして注文場に向かいながら、来店してから注文せずに長い時間を過ごしてしまったことへ微かに罪と恥を覚えた。彩田は同じ紅茶を二つ頼み、どちらにも調味料を加えずに席に戻った。
小芳は曲丘に、最小限動作での再起動について相談していた。
「それはどういう考えの下での操作ですか?」
「えっと……普通に起動しても駄目だから、最小限の起動にしたら何か変わるかなと」
「残念ながらあまり変わりません。既に暗号化された後ですし。……それに、……最小限の動作しかしないということは、セキュリティプログラムの動作も抑制する可能性が大きい。場合によっては悪化します」
小芳は再び手元に目を落とした。
曲丘は彩田に与された紅茶の礼を言い、後で払いますと言いながら、顔の不織布をずらして茶を口に含んだ。彩田は断ったが、それを無視して、曲丘は茶を机に戻して言った。「……才能はないですが、素養はあると思ってもいいでしょう」
小芳が自分に向けられた言葉だと気が付いた。「どういう意味ですか」
「目的が無いから伸び代が短いんですよ。……分厚い技術書を全て習得するような才能が有れば話は別ですが、そんな期待は普通しません。……目的意識が無いと、学びが続かないんですよ。あなたに足りないのはそれです」
小芳は曲丘から目を離すわけでもなく、しかし言葉を継がずにいた。
「…さて、仕方がないですね。…あなたと同じ条件で模範解答を示してあげましょうか。あなたがどうすればよかったか。……あなたのパソコンを貸してくれますか?」
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