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【小説】歯医者に行く人に読まれたい会話劇

前書き
・Pixiv様で公開させてもらっている作品です。縦書きでお読みになりたい場合はPixiv様(以下のリンク)よりお読みください。
#4 歯医者に行く人に読まれたい会話劇 | 願望と献花 - Kaori Asamaの小説シリーズ - pixiv

登場人物
彩田あやた守裕もりひろ:数学が専門の大学院生。感染症で田舎に帰省中。最近ヴィクトール・ユゴーを読んでる。
曲丘かねおか珠玖たまき:IT関係のフリーランサー(23歳)。感染症の流行下で地方移住した。ユゴーは知ってる。よくバードウォッチングしてる。

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2020年6月。田舎の午後の道路。
彩田あやた青年:歯科検診に行きたいが、感染リスクが気になるので躊躇っていると曲丘かねおかに話す。

「それは悩ましいですね。…歯は大事ですよ。感染リスクがあっても。…寿命にもかかわりますし…歯は」
「寿命…」彩田あやた曲丘かねおかが言わんとしていることを察した。しかし彼女は彩田の相槌あいずちを困惑と捉えて補足を始めた。
「歯一本とその神経を失うということは、全身の代謝系のオーダーを作り変えることになる。神経の一つひとつは、それぞれ異なる組織と繋がっている。胃腸、心肺しんぱい肝腎かんじん脾膵ひすい、泌尿生殖器、胆嚢たんのう……。そこの繋がりが損なわれるということは、生体のネットワークに乱雑さをもたらす。上手く平衡へいこうできればいいけれど、歯を一本失えば、口腔の歯の間の物理的な秩序も乱れる。抜歯後はそれぞれの歯に対する力の掛かり方も変わる。口腔内の化学的な系だって変わる。そこでも動的平衡を維持して行けるかどうか」
「生体内のネットワークの話ですか」
「はい、要するには。…アクシデントは、推移下のネットワークにおける不慮の事象は、必ずいつも起きているものです。規模の大小を問わず。課題は、ネットワークが回復できること。社会であれ、組織であれ、人間関係であれ、私達の身体であれ。解体しないように、生産的であるために、組織の人間は奔走ほんそうする。人は一人では生きていけないから、別れがあれば出会いがある。身体への負荷や炎症は毎日起きている、でも全身が渾然こんぜんと回復を促す。全てが瓦解がかいする臨界域に達しない限り、ネットワークは傷ついては治ってを繰り返して持続する。……でも老いれば、回復力が衰える。……回復力と備えが、ネットワークを永らえさせる。でも老いすたれればネットワークは回復し辛くなる。例えば歯を失うのだって老いです。歯一本の中でも、神経を通じて摩耗まもうと再生が繰り返されている、そしてそれは全身の代謝系の一部分で、その一部分を損なうことは、全身にはかすかな影響だけれど、でも小さなヒビには違いない。……そういう意味で、歯は軽んじるべきではないと思うんです」
「……はい、分かります。……仰る通りだと思います。……早めに行っておきたいと思えるようになりました」
「その方がいいですよ。最悪、田舎でもクリニックが綺麗なところ、パターナリズムが酷くない所を探して、検診だけしてもらって、レントゲンだけでも撮ってもらえばいいんです。治療を勧められたらセカンドオピニオンをもらうと言って、かかりつけの所に行けばいい。もし異常事態なら、もうコロナくらい一大事ですから」
「……そうですね。…はい。……こんなに歯について熱い人、歯医者以外で初めて会いましたよ」
 曲丘かねおかは一度小さく笑った。「私、昔検診に行っていなかったので、一本抜髄ばつずいすることになりました。歯磨きは申し分ない、食生活もほとんど問題ない、……でも、知らない内に奥歯の神経がむしばまれていて。…ストレスでした。無意識に歯軋はぎしりをして、それで細いヒビが入っていたみたいで、そこから菌が侵入してたんです。それがハチミツと黒砂糖の舐め過ぎで育っていました」
「…それは辛いです」
「……だから、歯を一本抜いて、私は寿命が縮んでいます。……どんなに頑張っても長生きはできません。……どうしても、カバラ数秘術七の蠍座というのは、短命なんでしょう」
「えっと、す、数… 術… ?」
「数秘術です。……占いです。……すいません。大学の人に占いなんて、軽蔑の対象ですよね」
「……いえ、………まあ嘲笑する人も少なくないのかもしれませんけど、……僕個人は別に、否定しないです。信じてはいませんけど、意義はあるものだと思います。……人間、理屈だけで生きてはいけないですし、……それに、どこかでランダムネスを取り込むという意味で、占いの文言もんごんを若干参照するというのは、ありだろうと思います。セレンディピティ、…偶然や発見というのも学術の対象ですし、……これこそ最近の現代的な分野で、数字も使ってやるようになった。…… 学術的、理性的な世界に生きていたって、完全に無視できる領域ではないと思います」
「そうなんですね。そう言ってもらえると気が楽です。……迷信ですけれど、科学的な人からすれば馬鹿馬鹿しい話ですけれど、……まあ私は歯一本で心底深刻な気分になってしまう人間ですから」
「蠍座で、数秘術……が、いくつでしたっけ」
「七です」
「はあ… 。……こう言うと他人事に聞こえてしまうと思いますが、……でも大丈夫ですよ。曲丘さんは健康に注意しているのですから、……きっとネットワークが健康な方に平衡しています、し続けるでしょう」
「…そうだといいのですが。……一病息災とも言いますからね。……それに、歯もどこかで諦めもつくようになりました」
「……そうなんですか? ……それは、すごいですね。…… きっとすごく苦悩して、気持ちを整理されたんでしょう」
 曲丘かねおかは微笑を浮かべた。「……どうでしょう。……でも、仕方がないのだとは思いました。…うん。……仕方がない。これは罰で、…喪失は、烙印らくいんなんです」
 彩田あやたは愛想笑いを浮かべた。「なんだか穏やかじゃないですね」
 曲丘は微笑して詫びた。「一般論じゃないです。私に限った話です。罰とか烙印というのは。……拒むことのできないものにあらがうことをやめた、罰です。…あらかじめ決められた罰ではないでしょうか。神様は意地悪です。抗い続ける意志を与えられていたのか、それも分からない。……でも生きてるだけ、幸せだと思わなければならないのかもしれません。何の罪もなく命を落とす人達がいる、幸せを知らずに旅立って行く若い魂がある。だから生きることと罰を受けること、幸せであることの全ては、一つのことなのかもしれません」
「……難しいですね、幸せと罰が一緒というのは。すいません。よく分かってないです」
「いえ、私も変なこと言いました。……美味しいものを食べる、生きていると感じる、そしてそれで歯を損なう。……そんなところです」
「ああ、なるほど」
「……一般論じゃないって言いました。…でも、そこまで特殊な話でもないと思うんです。歯のトラブルと罪のかかわり。……悪魔か何かが、しばしば最初に触るのが、歯なんです。…凡庸ぼんような悲劇は歯から始まる。……私達人間が世界と、この地上と交流する最初の場所が、口です。食べ物、土から生まれた生命の源を、私達は口から取り込む。そうして命を燃やす。だから口の問題は、私達と大地を離れさせてしまう」
「食べないと生きられませんからね。生きていれば悪魔にも狙われる……ということでしょうか」彩田は自分が宗教的素養をまるで持たないことを実感した。
「そうですね。……まあ悪魔というのは、比喩ですけれど、色々な悪いものの。…昔は色々なことが分からなかった、色々な言葉が足りなかったから。宗教というのは、迷信と科学的誤謬ごびゅうも含めて、コミュニケーションには必要なものだったと思います。共同体無しに人は生きられませんでしたから。…今と昔で共同体というのは様変わりしてしまった気もしますが、………でも現代はずっと良くなった。歯学しがく医療は、この二十年で全く進歩した。大昔は抜くしか無かった状況も、空白となるべきだった箇所も、近代では詰め物や入れ歯で補えるようになった。前世紀には、根管こんかん治療が確立した。歯そのものは死んでしまうかもしれない、……それも大事おおごとですけれど、……でも歯が一旦いったんは残せた。今はもう少し進んで、歯髄しずいを残せる状況も増えた。きっと私達が生きていく半世紀で、歯学と技術はまたすっかり進歩する。今はインプラントが精々でも、もしかしたら再生医療と組み合わせて、抜かれた歯を神経から再生できる日が来るかもしれない。問題は政治だけです。…特にこの国は先進医療を政治が無視する。新しい術で救える命があるのに、行政が保険を見直さない。学府もカリキュラムを変えない。それで人々の命が損なわれていく。…… そういう一部の牛歩と愚蒙ぐまいの現実から目は背けられない。……でも、人類全体で見れば、歯学は大きく進歩した。悪魔を遠ざけた、…… とまで言っていいのかは分かりませんけれど、でも、昔よりは、悲劇を見なくて済むと思うんです」
 彩田は彼女の目に差した光を認めて大いに賛同した。
「ユーゴーの、『レ・ミゼラブル』のフォンテーヌさんだって、そうではないですか? 彼女は最初に歯を売ったから命を落とした。もし最初に身体を売っていれば、……やはり危険 には違いないけれど、そうしなければならない時点で最悪の社会情勢ですけれど、…虚構を現実的に考えてみるならば、歯でない方を売っていたならば、もう少し生き永らえることはできたかもしれない。歯の喪失が始まりとなって、フォンテーヌさんという生活者ノードは、社会ネットワークにおいて、そのエッジの数を減らした。…確かにコゼットの幸せは、ジャン・ヴァルジャンの贖罪しょくざいのお陰で、フォンテーヌさんが生き永らえては、コゼットは不幸に終わったかもしれない。でもフォンテーヌさん自身も、あそこまで悲劇に終わらなくて済んだ。……私は、フォンテーヌさんの悲劇が、一番の問題で、残りは補題ではないかとさえ思っている偏った読者なので。……とにかく、当時と比べた現代は、……きっと良くなっていると思えます」

(覚え書の抜粋おしまい)

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参考文献
・ダンカン・ワッツ、辻竜平、友知政樹訳:『スモールワールド・ネットワーク――世界をつなぐ「6次」の科学』〔増補改訂版〕筑摩書房、2016年。
(※執筆にあたり歯学文献は参照していません。著者は歯学について素人です)

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 著者がPixiv様で連載させていただいている文学作品『願望と献花』の第7部に書き入れる予定の覚え書きでした。
 お気に召しましたら本編も以下のリンクよりよろしくお願いします(Pixiv様に飛びます)。
「願望と献花」/「Kaori Asama」のシリーズ [pixiv]

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