光を秘めて【感想文の日55】

こんばんは。折星かおりです。

第55回感想文の日、今夜感想を書かせてくださったのはあまやりんさんです。

社会人2年目のあまやりんさんは昨年5月にnoteを始め、エッセイを中心に文章を書かれています。フレッシュな視点で考えた「はたらく」ということについてのお話や、一生懸命に取り組んだ野球についてのお話など、こちらの背筋も伸びるような凛とした文章が印象的。一週間、きらりと光る言葉たちに心を掴まれながら拝読しました。改めて、ご応募くださりありがとうございます!

それでは、ご紹介いたします。

■言葉ひとつを噛みしめて

朝井リョウさんの『もういちど生まれる』の中のある一節に出会って以来、文章を書くときにカタカナやひらがなによる印象の違いを気にしている、というあまやりんさん。言葉の面白さや可能性に心を震わせ、自分らしい文章を書いてゆきたい。「読む」と「書く」を愛するあなたにもきっと響く、あまやりんさんのまっすぐな思いが満ちた作品です。

ちょっとどきどきしている。はじめてアイラインを引いたときくらいの、カタカナよりもひらがなで書く、どきどき。
引用:(朝井リョウ『もういちど生まれる』幻冬舎文庫,2014)

主人公がまどろんでいるときに友人からキスをされた、という『もういちど生まれる』の中のワンシーン。「ドキドキ」ではなく「どきどき」を選んだ作者の思いを丁寧にくみ取るあまやりんさんの言葉に、うんうんと頷きながら読み進めました。

私の解釈になるがこのひらがなのどきどきは、カタカナで表現されるドキドキよりも心臓の鼓動はほんのすこし小さく、遅い。そして心をさすような、張り裂けそうなものよりは、じんわりと胸があたたかくなるような種類のどきどきだと思っている。

音は同じでも、文字にすると言葉が持つ温度はぐっと変わります。冷静に、それとも情熱的に。爽やかに、それとも華やかに。どう伝えれば読むひとの心に響くのか。そう考えながらキーボードを叩く楽しさは、きっとここにいる誰もが感じたことがあるのではないでしょうか。

言葉ひとつを噛みしめて、吟味して、自分の表現したい色を着せて生み出していく。その作業は、わくわくに満ちている。ひらがなの。

言葉の可能性を信じ、より「自分らしさ」のある文章を追い求める。例えなかなかゴールの見えない道のりだとしても「わくわく」した気持ちがあれば、きっと大丈夫。私もあまやりんさんのように、ひらがなの「わくわく」を忘れずに進んでゆきたいです。

■夢を叶えた日

小さな頃描いていた「将来の夢」。あの頃は努力をすれば叶うと思っていたけれど、大人になるにつれ、夢が叶うひとの方が圧倒的に少ない現実を知ることになります。それでも、一度手放した夢に人生のどこかで巡り合うことも。力強い言葉に背中を押される、魅力的なエッセイです。

今回拝読した作品の中で、個人的に一番ぐっときた作品でした。叶わなかった夢、まだ諦めきれない夢。私自身も何度も触れてきたテーマだったので、心のど真ん中に刺さりました。

あまやりんさんが卒業アルバムに残していたのは「今と変わらない野球が好きな野球選手でいたい」という夢。プロ野球選手にはなれないことを悟っていた当時のあまやりんさんが「野球が好きな野球選手」と書いた気持ちを想像し、そのけなげさに胸の奥がちくりと痛みました。

しかしある日、その夢が叶う瞬間がやってきます。社会人のクラブ活動で、あまやりんさんはふたたび野球をすることになったのです。

やる前は運動不足で少し億劫な気持ちもあったけれど、いざグラウンドを目の前にして、白球を追いかけていたら、当時のような何かに夢中になる感情がよみがえってきた。暑くて泥だらけになったけど、心はいつもより白の度合いが高かった。

「白の度合いが高い」。生き生きとした気持ちが熱く伝わる言葉に、こちらの心もぐんと動きます。プロの野球選手ではないけれど、あの頃のように白球を追うあまやりんさん。その心には、「野球が好きだ」という変わらない気持ちがしっかりと燃えています。

けれど、小さくても、自分が誇れれば夢は夢だ。目標と言ってもいい。そういう類は、追っている時間がおもしろい。時間がしっかり、時間として動く。生きている感覚が強くなる。

ああそうだ、と読み進める手が止まりました。誰に何を言われようと、どんなに大変な思いをしようと、まっすぐに夢を見つめて過ごす日々はとても充実しているもの。「自分が」動いているという手ごたえを感じられる時間はやはり、私たちを「夢」へと連れて行ってくれるのだと思います。

■体に刻まれた記憶

あまやりんさんは職場の窓口で、認知症のかたと出会います。今日の日付もあいまいな様子だったけれど、そのかたは難しい漢字を含んだ名前を一切の迷いなく書き込んだそう。その姿を見てあまやりんさんが巡らせた「記憶」についての思いが綴られています。

自分の名前は、ともすれば一生で一番書く字の集合体なのではないか。

「誤解もあるかもしれない」と前置きしつつ、迷うことなく書かれた名前に心を動かされた理由を探ってゆきます。小学生の頃には、習いたての漢字交じりの「期間限定」の署名で。もう少し大きくなったら、新しい教科書やテストに。社会人になると頻度は落ちてしまうけれど、きっとこれから先も。数えきれないほどに書く自分自身の名前はそのひとにとっての「体の中に刻み込まれた一つの動作」なのではないか、という答えにあまやりんさんは辿り着きます。

もしかすると何年後かに、今よりもっと、何かを忘れてしまうかもしれない。それでもその時もまだ、名前は迷いなく書けるんじゃないか。そう信じなくてはいけないくらい、生を感じた。

数えきれないほどに繰り返されてきたひとつの動作が醸し出す「生」。圧倒的な力強さと美しさをとらえた表現に、息をのみました。

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毎週土曜日の「感想文の日」、感想を書かせてくださるかたを大募集しています!(1~2日程度、記事の公開日を調整させていただく場合があります。現在、7/17以降の回を受け付けています)

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