しごとは選べるの?だれのため
会社員勤めを長年してきました。目標を立てて、達成するの繰り返し。それは普通のことだし、変化成長することが人間の良いところと信じてきた。
体力や根気があるから失敗しても、次があるから気にならない。調子が良ければ、ノリに乗って楽しかった。
広げたり、増やしたりが正義と思っていた。
逆に、今思うことは、いつももっともっとと追われていたような気がする。深く考えないで、妄信的にこの道を進んでいた。
ふと気づくと、ほしいものには囲まれていたけれど、必要な人・もの・ことがわからなくなっていた。
「何も持っていなかった」と気づいてしまった。やっとと言うべきだろう。
誰かのためと言いながら-人の為と書いて「ニセ」という-本当の姿でいなったかも。
自分のしあわせのグラスは、いつも満ち足りてはいなかった。溢れた分を人に渡してはいなかった。
誰のためだったのか?
自分を大切にしてた?
自分を後回しにしていなかったか?
長いこと信じていたことが、「間違っていたな」と感じ、新しい今までと違う価値観に方向転換しなければならなくなったら…
今までと違う道を、しごととしてやっていけるのか?間違ってないかと考える。
わたしが尊敬している方が、「やるハメになったことを淡々とする」ことをすすめていた。
しかし、今はまだやるハメににはなっていない。「今までのしごと」と「これからチャレンジするしごと」の間。
キッカケは、手を骨折したこと。原因はケンカではない。悪しからず。
「今までのしごと」で働けなくなったの。ここで立ち止まって見渡せば…
どこで生きていけばいいのだろう。
とにかく今できそうなことをして、「やるハメ」を待とうと思う。