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考えて選択すること

先日のレッスン中
ふと古いヨガ友の言葉を思い出しました。


「”ん?あ、それは自分はやらなくていいな・・・” そう思ったんだ」

ヨガのトレーニングでは、お互いに先生と生徒との役をやって指導技術の練習をします。 私たち同期生は気軽に集まって、いわゆる体の使い方(アライメント)を、言葉とハンズオンの両面からよく練習しました。 練習後にみんなでいろいろ気づいたことをシェアしあっていた時、それは会話のテーブルにぽんっと差し出されました。

そして、こんなに年月が経ってもふと蘇ってくるぐらいだから、それは私にとって、A-ha! の大きな気づきであったことは間違いありません。


先生役の友人が出したアライメント・キューに対して彼が頭の中で思ったこと。
自分はもうすでにそのアクションをしていて、それは今の自分にとって十分であるという意味でした。

それ以上しなくてよい、今自分がやっていることで十分だ、と判断したということでした。 それは、先生の(あるいは側の)判断や声に、即座に反応するのではなくて、ちょっと立ち止まって感じたり考えたりして自分の選択するということです。

先生から受け取る指導を無視するというのではありませんし、先生の判断や指示が正しいかどうか評価するというのでもありません。 また、自由にやりたいんだから自分の好きにする、という視野の狭い態度というのでもありませんでした。

ヨガのプラクティス では方向を示してもらったら、あるいは方向を学んだなら、まず自分でやってみます。 そして自分にとってそれはどうかな?と眺めます。 眺めるのは、どのように感じるか?に始まり、自分のその努力は適切かな?などなど。 練習でそれを繰り返していると、今の自分に適切なところ、というのがだんだん見えてくる・予測できるようになります。 

同時にあまりそこで得たこと・気づいたことに囚われなくてもよいです。

向上心があったり、真面目だったり、あるいは長い年月のうちに、いつのまにか特定の考え・感覚に囚われて、適切だと思ってやっていることが実はそうではなかった、というのもありうることです。 

そうしたことも、またヨガの興味深いところ。

間違いでも失敗でも、回り道でもなくて、実践してきたからここで気がついたんだなぁ、ぐらいに考えているのがちょうどよいんじゃないかと思います。



冬の柔らかい光が美しい


グループのレッスンでは、多くの場合、全体に向かっての指示と同時に個別のそれが飛び交います。 先生は、基本その場所で「見たこと、目に留まったこと」について指示を出しますが、同時に一般的な体の使い方について話していることもあります。 それはあなたのユニークな個性とは相入れないかもしれない。

なので、全てを先生に丸投げして従うのではなく、あるいは、先生を尊敬するあまり盲信してしまうのではなく、自分で選んでいくこと、も同時に重ねてゆきたいと私は思います。

ヨガの場面で起こることは、日常生活でも起こっているのかもしれない。

SNS でシェアされることについ盲従してしまったり、その情報が正しいと思い込んでしまうことないでしょうか?  SNSで目にするイメージ、魅力的な人物像、ビジネスで成功したケース・・・それをモデルに、いつのまに盲目的に追っていたということが、無意識に起こっていたりします。

そういう時、私たちはその刺激的な情報に反応してるだけなのかもしれません。

ヨガの実践の良いところは、そんな風に情報に溺れている時に、ちょっと待てよ?!っと私たちにたち立ち止まらせる、そんな気づきをもたらすことではないか、と私は思っています。

「自分の声を聞く」というように、分からなくても迷っても、やはり手探りしながら、試し繰り返すことは大切です。

先生の指示、ひょっとしたらあなたにとって全て正解ではないかもしれない。

あの15、6年近くも前の友人の言葉を思い出しながら、「今、あなたはどうしたいか、眺めてその選択をしてみましょう。」そんな風にクラスで皆さんにお伝えしていました。

時に、そんなプラクティス を、たとえ先生に言われなくても、自分で取り入れてみてください。


OM
Kaori