上手い下手を超えたところのうつくしさ
中学3年生の娘の教科書をパラパラと見ていたら
こころに響く詩に出会った
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うつくしいものの話をしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
そうしてわたしたちの会話は貧しくなった。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
風の匂いはうつくしいと。渓谷の
石を伝わってゆく流れはうつくしいと。
午後の草に落ちている雲の影はうつくしいと。
遠くの低い山並みの静けさはうつくしいと。
きらめく川辺の光りはうつくしいと。
おおきな樹のある街の通りはうつくしいと。
行き交いの、なにげない挨拶はうつくしいと。
花々があって、奥行きのある路地はうつくしいと。
雨の日の、家々の屋根の色はうつくしいと。
太い枝を空いっぱいにひろげる
晩秋の古寺の、大銀杏はうつくしいと。
冬がくるまえの、曇り日の、
南天の、小さな朱い実はうつくしいと。
コムラサキの、実のむらさきはうつくしいと。
過ぎてゆく季節はうつくしいと。
きれいに老いてゆく人の姿はうつくしいと。
一体、ニュースとよばれる日々の破片が、
わたしたちの歴史と言うようなものだろうか。
あざやかな毎日こそ、わたしたちの価値だ。
うつくしいものをうつくしいと言おう。
幼い猫とあそぶ一刻はうつくしいと。
シュロの枝を燃やして、灰にして、撒く。
何ひとつ永遠なんてなく、いつか
すべて塵にかえるのだから、世界はうつくしいと。
「世界はうつくしいと」 より
長田 弘(おさだ ひろし)
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うつくしいって何だろう
私にとっては、それは上手い下手を超えたところにある
言語化できないような熱いものが、一気に心の真皮に触れるような感動がある
心躍るようなうつくしさもあれば
哀しいうつくしさもある
胸が熱くなるようなうつくしさもあれば
胸がしめつけられるようなうつくしさもある
何気ない日常の中にその瞬間しか出会えないうつくしさがある
それは、庭の葉から滴り落ちそうな雨粒の透明さを見たとき
子どもたちが「今」この瞬間に没頭している、その子だけの輝きを見たとき
それは自分を生きると言う勇気に触れた時
それは自分にしかない山を登っているその必死さに触れた時
自然が自然としてそこにあるように、完全とか不完全を超えて、その人の精一杯に触れた時
その迫力と純粋さ、存在のうつくしさに圧倒される
そこには
格好良くとか
いかに上手くやるかとか
自分がどうみられるかとか
スマートにとか
要領よくとか
効率的にとか
最大限の効果を出してとか
失敗せずにとか
上手く見られたいとか
その次元は超えたところに、心を震わせるうつくしさに出会うのだ
いつでも言葉を惜しまないで、私の感じるうつくしさを大切にしたいし
うつくしくないと感じることも大切にしたい
そして私と同じように、目の前の誰かもその人独自のうつくしさを見ているのだ
その世界はとても豊かだなと思う
自分の感性と言葉を大切に扱いたいなとこの詩を読んで改めて感じた
感性の声を信じ続けて、行動した方が人生は豊かになる
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