私の不育症歴③ 世界が180度変わった死産という現実(1)
2008年に結婚、2回の流産を経て、2012年4月にようやく無事に1人子供を産むことができ、「子を育てる」というステージに立てました。
そんな中、次の妊娠で、まさかの後期死産。
人生観、死生観、価値観、人間関係、ありとあらゆるものが180度変わってしまいました。
今回はそのことについて、ご紹介します。
きっと長くなるので、わけて記録しますね。
1.何より大きな自信になった無治療出産
不育症検査で異常なし、という結果だったこと、そして何より「無治療で出産できた」という経験は、私の流産経験の不安をぬぐってくれた大きな結果であり、これで次は他の人と同じ、普通の妊娠生活ができる。と思える程のことでした。
無事に4月に生まれてきてくれたことで、1年間きっちり子供と過ごせる時間(育休)ももらえ、娘にありがとうの気持ちでいっぱいでした。
2013年5月に仕事復帰し、不育症の不安がなくなったことから、2人目については、1年間はしっかり仕事をしてからにしよう、と仕事と子育てにまい進しました。
子供がいて時間制約がある中、今までと違う仕事を任せてもらえたり、子育てと仕事の両立に一番の充実感を感じていた、とても幸せな1年でした。
2.4回目、一番の幸せ「も」感じた妊娠
2014年9月、33歳、3学年差で4回目の妊娠ができました。
2度の流産手術、1回の帝王切開、私の子宮は既に大きな負担がかかってる中、妊娠できたことはとてもありがたいことでした。
4回目の妊娠も、これまでと同じ個人病院に通院します。
いわゆる初期流産~12週までは不安はありましたが、とくに何事もなく、20週頃まで順調に育ってくれていました。
性別も男の子とわかり、姉弟はどんな風になるかと、未来という希望に想像を膨らませ、週末は家族でのんびり散歩して過ごす、本当に、ごく普通の喜びを感じられる、とてもとても幸せな妊婦生活で、「ようやく普通の妊婦さんになれたんだ」と心の底から感じていました。
ただ、一方でやっぱり2回の流産経験は消えることはなく、不安が100%払拭できたわけではありません。
自己防衛機能だと思いますが、周りには極力報告をせず、冬になることをいいことにコートで隠したり、マタニティマークは電車以外(座りたいわけではなく、いざという時に身を守るため)は外していました。
それでも保育園の先生やママさんに気が付かれ、「はい、実は・・・」とお伝えすることもありました。
「わー!おめでとう!」と言われても、心から「ありがとうございます!」とは言えませんでした。
私は周りから妊娠報告を受けても、おめでとうと言えません。
その代わり、「そうなんだね!教えてくれてありがとう。体大切にしてね(^^)」とだけ伝え、おめでとうは無事出産がわかってからきちんと伝えるようにしています。
それだけ「おめでとう」の大切さ、重たさが私にはあるからです。
3.死産の前兆だった?不安が出てくる
25週過ぎたころからです。
発育不全とは言えませんが、赤ちゃんの大きさが平均より小さい推定体重になってきました。
胎児成長曲線の下限であるものの一応範囲内ということで、大学病院に転院するわけでもなく、様子見でした。
ここで大学病院に移っていたら変わっていたのではないか・・・と悔やむことは、今でもよくあります。
仕事も続けつつ、無事に3月20日で産休に入りました。
その2015年3月20日で仕事の日付印が止まっています。
希望に満ちた日付をもう2度と回すことはできず、今も捨てられず残っています。(現在は、部署が変わり別のを使っています)
仕事もがんばってやりきった!さぁ、これから出産までのんびり過ごそう!上の子も沢山甘えさせてあげよう!という気持ちでいっぱいでした。
産休すぐ、1週間程実家(車で1時間の距離)に帰ることにしていたので、その前に検診に行きました。
それが2015年3月25日。死産の4日前です。
相変わらず推定体重が小さいものの、異常はなく、実家に帰ることもOKをもらえました。
実家の両親も唯一の孫である、娘と次に生まれる男の子を楽しみに、一緒に出掛けてくれたり、ほんのりとした実家生活を過ごしていました。
近所の人の少ない温泉に行き、温まり、血流が良くなったことで、母にも「男の子胎動強いねー」なんてことを話してました。
その晩、寝る時に感じた胎動が最後の胎動でした。
翌朝、起きると胎動がありません。
何度もゆすっても、動かない、ポンポンしても反応がない。
ただただ、お腹がずっしり重たい感覚だけ。
今もその重み、はっきり覚えています。
「またか。。」と事態を悟りました。
(2)に続きます。
****Kao****