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【小説】陸と海と空と闇 (第6話)

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第4章 葵の変化


 あおいがおとなしくなった、と病棟で評判になった。

なにしろ、これまでの葵ときたら。

サーフィンのパドリングだと言って、ストレッチャーを勝手に持ち出し、腹ばいで乗って病棟の廊下を滑走してみたり、
リハビリルームの松葉杖をふりまわして剣道だとかフェンシングだとか言って、他の患者をたたいたり……。
記憶に新しいアルミ缶タワー事件など、病棟内で数々の武勇伝、というか迷惑行為があった。
担当看護師が次々に交代を申し出て、何も知らなかった新人の川田が担当に選ばれ、川田いわく「絶賛振り回され中」だったところだ。

そんな葵が一日中静かに座って、特に面白くもなさそうな顔で、本を読んだりテレビを見たりしている。
好き嫌いが多く、メニューによっては食べたくないとごねてトレーを投げ飛ばしていた食事も黙って完食するようになり、配膳担当係も驚いていた。

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 葵がそんなふうにおとなしくなったのは、院内の怪物『闇』に魂を抜かれたのが原因で、その時夜勤だった川田と看護師長の大和やまとだけが知っていたが、川田はこのことを口外しないよう大和から口止めされていた。

大和は夜勤明けの朝、言った。
「川田さん、葵ちゃんが『闇』に魂を抜かれたと言ったら、信じる人がいると思う?伝説は伝説のままでいいんじゃないの」

それはつまり、夜勤担当から日勤担当への申し送りの時には
「夜勤の時間帯には特に異常はなかった、と言いなさい」という意味だと川田は理解した。

そしてその後も川田は『闇』のことを話題にしていないようだが、大和は心配していた。川田は素直なところがある。同僚たちのおしゃべりの場などで、悪気なくうっかり喋ってしまうのではないか。しばらく気をつけて見張っておこうと大和は思っていた。

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 病院の職員たちは葵の変化を見て、好き勝手なことを言っていた。
「葵ちゃんもお年頃だからね」
「お姉ちゃんがモデルさんだから、葵ちゃんもそうなりたいとか?」
「お母さんが大変だってわかったのかも」
葵の変化に対してはおおむね好評のようだ。

そんな噂を聞いたので、リクはラウンジで本を読む葵を見かけた時、呼び掛けてみた。
「葵ちゃん」
葵はリクのほうを向くが、その眼はどこを見ているのか、焦点が合わない。リクに返事をすることもなく、すぐ本に視線を落としてしまう。
続けざまに四、五ページめくってみたり、数ページ戻ってみたり、じっと一ページを長く見ていたり、きちんと読んでいないのがわかる。

葵ちゃんはおとなしいのではなく、なんか変だ。
リクは確信した。

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 葵はリクと同時期に入院した。たしかリクの一つ下だ。
数々の武勇伝はリクも目撃していたが、よくあんなパワーがあるな、と感心して――なかば呆れていた。

元気な時の葵みたいに暴れることができたら、完治しない病気とつきあっていかなければならない自分のモヤモヤした気持ちも晴れるのだろうか。

ラウンジをうろついて、そんなことを考えていたら「絶望しろよ」と言われた気がした。
もうしてるよ。とっくに絶望してる。
そう答えた時、エレベーターが到着して、チン、という音を立てた。
「リク、お見舞い。プリン持ってきたよ」母親が面会に来たのだった。

「葵ちゃんがおとなしくなって、ママが安心してるらしいわよ」
リクの母親はプリンを食べながら言った。
リクの母親は「お見舞い」「差し入れ」と称してアイスやプリンを持ってきては、病室でリクと一緒に食べる。実は母親自身が食べたいのかも、と思うがそれは言わない。

「葵ちゃん、おとなしすぎるよ」まるで別人のようで気味が悪いとリクは思うが、母親にはそうは見えないようだ。
「そう?あれで普通の女の子だと思うけど。この病棟、そんな感じのおとなしい子がいっぱいいるじゃない。まぁ、病人だから元気なわけないわよね」
母親はカップの底の最後のカラメルをスプーンですくって、名残惜しそうに口に入れた。

 葵のお兄ちゃんは頭がよくて、いい学校や塾に行っていて、お姉ちゃんはモデルで放課後や土日には雑誌の撮影があり、葵のママは毎日彼らをあちこちに送迎しなければならないそうだ。
パパは仕事が忙しいらしく、ママのワンオペだ。

それなのに葵が病院で騒ぎを起こすから、看護師長や主治医に呼び出されてお叱りを受けて、もう大変、とリクの母親に会うたびこぼしているという。

葵が院内でトラブルを起こすのは、きっと構ってほしいからだろう、とリクは思う。
きょうだいは優秀で活躍しているのに自分は入院中で、後れをとっている気持ちもあるだろうし、パパは仕事、ママはきょうだいの世話で、自分が放っておかれている感じもするだろう。

リクはそんなにアイスやプリンが好きなわけじゃないけれど、なんだかんだ言っても母親が顔を見に来てくれると、ちょっと安心する。
葵もママが来るとつんけんした態度ではあるが、やはり嬉しそうだった。

しかし今の葵は、ママが来ても表情が変わらないようだ。

(つづく)

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