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りんごを剥いたら|連載「記憶を食む」第4回|僕のマリ

思い出すことのかたわらにはいつも、食べものがあった。
大切な記憶も、ちょっとした記憶も、食むように紡いでいく。気鋭の文筆家・僕のマリによるはじめての食エッセイ連載。
第4回は、いまも著者のかたわらにある、大切な「あの生き物」の思い出と。

 犬の散歩のバイトに応募して、落ちたことがある。ものすごくやりたかっただけに、ショックが大きくてふて寝した。大好きな犬と散歩できて、お金がもらえるなんて最高!と舞い上がっていた自分が哀れだった。今思えばそんな最高なバイト、倍率が高いに決まっている。実際にやってみたら大変で責任も大きいかもしれないけれど、それでも一度はやってみたいと今も未練たらしく思う。いつかくるその日に向けて、体力をつけておこうと意気込んでいる。

 近所にキャバリア・キング・チャールズスパニエルを飼っているお家があって、その犬はものすごく人が好きで仕方ない犬らしい。飼い主さんも親切で、散歩中にすれ違うと触らせてくれることがある。小さな頭をめいっぱい擦り付けながら、尻尾も千切れそうなほど激しく振り、情けないほど甘ったれた顔をしている。全部の犬がそうではないとはいえ、でも犬という生き物は愛を食って生きているような風情がある。子どもの頃から犬好きの自分は、白い服を汚されても、よだれをつけられても構わない。犬からしか摂取できない栄養がある気がする。いつだったか、「毎日夕方六時にこの角で待っていますので、犬を触ってやってほしい」という夢を見た。起きた時に夢とわかって激しく失望したのはこれが初めてだったが、自分のエゴと欲望を煮詰めたような夢だったので、夫には失笑された。

 昨年は看板犬がいるペンションに泊まりに行った。ゴールデンレトリバーが四匹いて、好きに触っていいというので感激した。みんな身体が大きくて毛並みもよく、爪も綺麗に切られ、よくお手入れされていた。大きい犬特有のぬるい息を吐きながら、歓迎してくれた。食事とお風呂の合間にたくさん撫でて、ほくほくとした気持ちになる。次の日はまた車を走らせて、「世界の名犬牧場」というところへ向かった。もう十年以上、結構なペースで遊びに来ているほど好きなところで、その名の通り様々な犬たちと触れ合うことができる。犬を一匹選んで散歩するのは有料だが、入場料も安く、利権をさほど感じないのも好きなポイントだった。そのとき犬に囲まれているわたしの写真を見たら、笑顔を超えた、うれしすぎておかしくなっている顔だった。物心ついてからずっと、犬が好きなままなのだ。

 家でりんごを剥くときにいつも、記憶の蓋が開く。まないたの上で八等分に切って、皮を剥いているときに耳がぴくっとする。でも、何があるわけでもない。聞こえてきそうなのは犬の鳴き声で、その犬というのは七年前に天国へ行った。でもりんごを剥くたびに、冷蔵庫の野菜室に手をかけるたびに、やっぱり実家の犬がクーンと鳴くことを思い出す。犬はりんごが大好物で、剥いているときから切ない声を出してアピールしていた。そわそわと落ち着かずに、そのあたりを歩き回る。「待て」と言っても、おすわりしながら激しく足踏みする。あんまりうるさいと、母に怒られる。それはもう、身体に染みついた我が家のワンシーンだった。いなくなってからずいぶん経つのに、今でも実家の玄関のドアを開けるときに、家の中から犬が走ってきそうだと思う。でももちろんそんなことはなくて、じゃあいつになったらそう思わなくなるんだろう、と考える。

 夫と食後の散歩で近所を一周するときに必ず通る家には、夏の間はトマトのプランターが置いてあった。小学校で一人ひとつ育てている、という感じで名札も土に刺さっていた。結構長い間、ひとつだけ実っているトマトがずっと収穫されずに垂れ下がっていて、それを見たときも実家の犬のことを考えていた。りんごに次いでトマトも大好きで、両親は犬のために家庭菜園でトマトを作っていた。トイレのために庭に放すと、何食わぬ顔で実ったトマトを食べて帰ってきた。口の周りに汁と種がついているのでバレバレだった。水を飲むなどして口周りの毛が濡れると、人間の衣服で拭きにくるのもおかしかった。ひとつ思い出すと、そこから枝葉が分かれるように色んな記憶が蘇る。

 でも、あの子が人間の食べ物をほとんど食べなくてよかった。あげていたのはほんの一部の果物や野菜で、基本的にはドッグフードと犬用のおやつだった。もし色んなものをあげていて、色んなものが好きだったら、思い出すことも多くて少しつらいのかな、と想像する。たかだかりんごやトマトでしんみりしている自分が、それに耐えられるだろうか。

 わたしは、人生であったつらいことや悲しいことを、だいたい乗り越えた気でいる。誰かに裏切られたり、失望したり、耐えがたいほど苦しいこともあった。でもなんとかやってきた。これからもたくさん、そういうことはあると思う。大人だけど、まだまだ大泣きすることだってたくさんあるはず。心が真っ黒になるようなつらいことだって、乗り越えなくても生きてはいけるし、意識せずとも気づけば乗り越えていたことだっていっぱいある。じゃあ、死んだ犬を恋しく思う気持ちというのは、どうだろうか。もし乗り越えられなくても、それを大事に抱えたまま生きるのも、悪くないと思う。

 亡くしたときの悲しみはいまだ濃いけれど、それでも犬はいいなと思う。生活の軸が犬中心になるとしても、お金がかかっても、少し大変でも、また飼いたい。表情豊かで温かくて、あまりにも真っ直ぐで胸が打たれる生き物。笑っているような顔や、叱られたあとの上目遣い、留守番のあとのしみったれた顔すらもかわいい。散歩中の犬を眺めることも、インスタグラムで犬の写真を見ることも、わたしの生活に自然と馴染んでいる。看板犬がいる宿やカフェに行きたいし、夫の実家に行くときは、隣の家で飼っている犬に一目会いたい。それで、「やっぱり犬はいいなあ」と、何千回も言ったであろう台詞を呟きたいし、「ほんとに犬が好きだよね」と、他人に呆れられたい。そう思うと、いなくなったときの悲しみ以上に大きな喜びを、犬からもらってきたのかもしれない。

 昔はさほど好きでもなかったりんごだが、いまでは欠かせない冬の楽しみになっている。トキや王林などの青りんごも好きだし、でもやっぱり甘みと酸味がちょうどいいサンふじが食べたくなる。わたし以上に夫はりんごが好きで、食事で満腹になってもりんごは食べる。食後にお茶を飲みながらりんごを食べているとき、しゃくしゃくと小気味良い音が居間に響いて、やっぱり犬がすっ飛んできそうで笑ってしまう。

僕のマリ
1992年福岡県生まれ。著書に『常識のない喫茶店』『書きたい生活』(ともに柏書房)『いかれた慕情』(百万年書房)など。自費出版の日記集も作っている。

次回は3月8日頃の更新です。
隔週金曜日に更新予定です。

過去記事は以下のマガジンにまとめています。


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