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祖母と梅、メロンに焼肉、初夏の風|連載「記憶を食む」第8回|僕のマリ

思い出すことのかたわらにはいつも、食べものがあった。
大切な記憶も、ちょっとした記憶も、食むように紡いでいく。気鋭の文筆家・僕のマリによるはじめての食エッセイ連載。
第8回は、祖母の思い出。梅干しから始まって、だんだん見えてくるおかしな祖母との楽しくて大切な思い出たち。

 寝るときに暑いと、ものすごい悪夢をみる。それはもう絶対に。秋から冬にかけては寝るのに気持ちよい季節で、布団でとろとろしていると気づけば朝、熟睡待ったなしだった。しかし春は難しい。朝晩は微妙に肌寒く、風邪を引いたらいけないと厚着して寝ると、夜中に絶対うなされて起きる。湯たんぽや毛布を蹴っ飛ばして、汗をかいて悪夢をみている。少しでも油断すればすぐに体調を崩す、それが春だ。しかし、うなされて起きた早朝にふと、キッチンを照らす朝焼けを見たとき、あまりにも美しくて驚く。それも春だ。天国やあの世があるとしたら、こんな明るさなのかもしれないといつも思う。自分だけが生きているみたいな静かな朝だった。

 日中汗ばむくらいの気温が、夕方になっても明るいままの時間が、子どもの頃からずっと好きだ。夏に向かっていく季節の、緑の美しくて濃い世界が、何度迎えても新鮮に美しいと思う。よく、秋はセンチメンタルな季節だと聞くが、自分の場合のそれは初夏だった。前に住んでいたアパートの二階は、四月の後半になると大家さんの庭のジャスミンの花から芳しい香りが漂っていた。わたしはよく、夜にベランダに出て、その香りを嗅ぎながらお酒を飲んでいた。あのとき胸に去来した狂おしい気持ちは、「うれしい」だったのか「切ない」だったのか、いまでも結局わからないままだ。

 毎年暑くなると、鹿児島に住んでいた母方の祖母が、自分で漬けた梅干しを送ってくれた。わたしは子どもの頃から梅干しが大好きだったが、カリカリ梅やはちみつ梅などの加工されたおやつのような梅干しが好きなだけで、祖母が漬けた紫蘇と塩だけの梅干しは、とんでもなく酸っぱくて好きではなかった。毎年たくさんの梅を漬けて、干して、遠くに住む娘のところに送っていた祖母を思うと、その梅干しは好きじゃないんだよなあとは言いづらかったが、その梅干しを入れたおにぎりが、いまでも食べたくなる。 

 祖母のことが結構好きだった。鹿児島のきつい薩摩弁でのんびり喋り、メスの柴犬を飼い、いつもアッパッパを着ていた。アッパッパというのは、主に女性が夏に着る、綿で作った適当なワンピースのことだ。記憶の限りでは、母も私も夏はアッパッパを着ていた。祖母が縫って送ってくれたものだった。仕事から帰ってきた母が、窮屈なデニムとガードルを脱いでアッパッパに着替えたとき、「ふう、生き返った」と言っていたことを思い出す。アッパッパを着たわたしたちは、『バーバパパ』の親子のようであった。

 母方の祖父はずいぶん早くに亡くなっていて、祖母は未亡人として生きた期間が長かった。洋裁の腕がよかったので、自宅の横に作業場を作って、おばあさんの仲間と一緒に服を作って暮らしていた。その作業場に遊びに行くと、日焼けしたおばあさんがたくさんいて、梅干しみたいだなと思っていた。いつも黒飴をくれたが、そんなに好きではなかった。食べないでいたら夏の暑さで溶けてしまっていた。
 祖母の家の玄関には、小さな靴がたくさんあった。二十一センチと、かなり小さな足のサイズの祖母を、子どもの頃は笑っていたが、まさか自分もそのサイズで成長が止まるとは思っていなかった。

 孫の自分から見れば、ずっとのんびりした適当な性格である祖母だったが、それは元々の気質でなく、夫を亡くしてから急に性格が変わり、自由を謳歌し始めたのだと母と伯母は語っていた。「お母ちゃんってあんな人やったんやな」と言い合う二人を見て、子どもながらに「そんなことある?」と思った。

 かわいがってもらった記憶は確かにあるけれど、それが過剰ではなかったから接しやすかったのかもしれない。祖母のカラッとした性格に結構救われていたのだと思う。まだ携帯電話も普及していなかった時代に、祖母と母はよく長電話していた。そして最後はわたしの声が聞きたいからと、母と電話を代わった。「元気にしとるんね、お母さんの言うこと聞きなさいよ、人を殺したりしたらいけないからね〜」と言っていた。当時はふんふんと聞いていたが、歳を重ねれば重ねるほど、ふざけたおばあさんだなと思う。でもわたしはいまも、祖母の言いつけの通り人を殺していない。

 そんな変わり者の祖母だったが、二年前の初夏にとうとう息を引き取った。訃報を聞いて急いで飛行機をとって鹿児島に帰り、鹿児島空港のあまりの小ささになんだか懐かしくて泣きたくなった。空港にいる人たちの喋る言葉が、外国語のように聞こえたが、全部薩摩弁だった。抑揚が激しく、聞き取るのが難しいのだ。日本なんて小さい国なのに、こんなにも違うことを忘れかけていた。祖母は数年ほど病気で寝たきりの生活を送っていて、体調を崩したのがきっかけで亡くなってしまった。しかし、そのとき八十八歳とまあまあ大往生ではあったし、亡くなったことがすごく悲しい、という雰囲気でもなかった。

 葬儀で、お坊さんが「みなさん、故人のことを思い浮かべてください」と言ったとき、わたしは吹き出しそうだった。銭湯へ行って他人の服と靴を身につけて帰って来たこと、バス停でナンパしてきた知らないおじいさんとその足でカラオケに行ったこと、朝食でわたしの皿にあったメロンを奪ってきたこと……。それなりにあたたかい思い出もあったはずなのに、祖母の奇天烈なエピソードが、肩を並べてわたしの記憶に迫ってきた。生きていたらもう少し我々を楽しませてくれたんじゃないかと思うほど、彼女は面白い人だった。本能のままに生きる、野生の動物みたいな生き様の祖母。あんまり干渉してこない、適当な対応と距離感が心地よかった。そういう人が好きなのは、いまも変わらない。

 祖母を火葬した後、親戚みんなで焼肉を食べに行った。葬式の後の焼肉なんて他人に話すとぎょっとされるが、祖母は焼肉が大好きだったので、これがいちばんの供養になると考えたのだった。そういえば生前、一緒に焼肉に行った時も、孫たちに取り分けるわけでもなく、必死に食べてたな……と思い出し、また笑いそうになる。みんなでたらふく焼肉を食べて帰る時に靴を履いていると、従姉妹の子どもがわたしのスニーカーが小さいことに気づいて笑っていた。店を出てから駐車場で靴紐を結び直している時、五月の心地よい風が吹いていた。

僕のマリ
1992年福岡県生まれ。著書に『常識のない喫茶店』『書きたい生活』(ともに柏書房)『いかれた慕情』(百万年書房)など。自費出版の日記集も作っている。

次回は5月10日頃の更新です。
隔週金曜日に更新予定です。

過去記事は以下のマガジンにまとめています。


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