それがないと生きていけないもの = 文化 その1 130/360
「それがないと、ヒトが全 (まった) き存在として生きることができないもの、それが文化なのかもしれない」件について何回かに分けて書いてみたいと思います。
第1回 「見たくない」世界を表現する存在
ごきげんよう、観世 (かんぜ) バタコです。
これを書こう (でもまだまとめられてないし・・) と思ってから1か月。
別の話題でnoteを書いていてもどこか、
本当に書きたいことを棚上げして「ごまかしている」違和感がひしひしと・・
ただ、いざ書こうとするとものすごく長くなってしまいそうで
取り掛かれずにいました。
(いや、本当に恐れているのは、「長さ」ではなく
「ちゃんと伝わるように書けるかわからない」なのかも)
今日は、エイやっの境地で「発表せず・出せずに」いるがために
発酵し始め腐臭を上げつつあるものを
とりあえず出してしまうつもりでアタックしてみます。
2019年5月28日に起きた川崎殺傷事件が大いに話題になったあと、ネットでの反応など、読んだものを参考にしているうちにわいてきた意見です。
引用させていただいたリンク先の記事や書籍をそれぞれ、もっと丁寧に個別に記事にしたい気持ちもあるのですが、自分がその意見に至った契機として簡単にご紹介するにとどめております。是非、原典もお読みいただければと思います。
1-1. 吉岡忍氏の語る「凶悪犯罪とその犯人像を追い続けた平成の30年間」
ここで語られていた、犯人像とは
『残虐性・暴力性
性欲が「倒錯」的方向に向かうこと、などを
「こじらせてしまった」ために起きた事件』という分析
残虐性・暴力性・倒錯的性向は、ヒトに打ち明けにくいものですが
それ自体はかなり多くの人が、一度は興味を持つのかもしれないと思っています。
吉岡氏が問題視しているのは、その性向自体ではなく
その「良からぬ性向を持っていることを誰にも打ち明けられず、
そのため
ほかの人も似たようなものを持っていながら
それを「凶悪犯罪を犯す以外の方法」で処理してるのを知らずに
ひたすら先鋭化していってしまう
または
そのような性向を真っ向から否定された経験を経て
「ゼッタイに誰にも知られてはいけない」と隠し続け
ついに堰 (せき) を切って事件を起こしてしまう?
という、いわば社会の問題としての捉え方です。
←川崎事件の「ひきこもり」も孤独カテゴリーに
入るのではと思います。
更に、吉岡氏は、犯人たちと接して (取材・面会など)
「自分の中だけで残虐性を追求する『内向』の極みとして
過去に別の人間や集団が犯した残虐の実例である『戦争』について
全く知らない」と述べています。
つまり、バタコの解釈では、人間の残虐性・倒錯傾向を
「否定」しても良い結果は産まず
そのような世界が
1)あると認める。自分に認め、他人にもあることを認める。
2)できれば誰かとシェアできる
ことで、「こじらせた末に犯罪という形でうっぷんを晴らしてしまう」
という最悪の結果を避けられる、
と吉岡氏は提案しているように読めました。
1-2. 無痛文明論
もう20年以上前 (これによると1998年?) かと記憶してますが、
NHK教育テレビに出演していた
森岡正博氏の「無痛文明論」はバタコにとって
その後も折に触れ思い出す、衝撃的な内容でした。
バタコは読んでいないのですが、書籍はこちら ↓↓↓
(ちなみに、Amazonではいつものことながら、レビュー欄に都合よく「概説」してくださっている方の文章が読めます・・ ↑↑↑)
森岡氏のHPにある無痛文明論 (超・長文だそうです)
バタコが、当時の放送内容の記憶をたどっての解説をすると:
近代以前の世界では日常的に目にするものだった「死」
家族・近所のヒトの事故死や病死、その結果の遺体
道端の死体 (犬猫、もしかすると行き倒れの人間) や、
家畜屠殺や漁・猟の場面での「獲物」の死体
そのようなものが現代では完全に隠されていて (病院とか)
目にすることもない。
「汚いもの、タブー」として避けられ
よのなかは「キレイで安全なもの」だけで構成されている。
このことがにんげんに深刻な悪影響を及ぼしている。
ほんとうはそこにあるのにひたすら隠されていて
考えることすら許されていないという状況のせいで
自覚もないうちに進むおそろしい病に侵されている。
直感的に「その通りだな」と思ったのですが
その後、「無痛文明論」について語る人を
メディア上で個人的にはお見かけしたことがなく
もっとひろく取り上げられたら良いのに
とずっと思ってきました。
1-3. 高井浩章「ジェフリー・ダーマ―」書評
恐らく、既にたくさんの方の目に触れ
思考の発端になっていると思うのですが
この「閲覧注意」連続残虐殺人犯の父親の手記。
↓↓↓ 改めてみると、タイトルがすべてを語っていますね・・
当然、「どうしてあんなことになってしまったんだ、
次の事件を防ぐにはどうしたらいいんだ」
という視点で皆さま読まれると思うのですが
バタコには上述の吉岡氏もハッキリと述べておられる
「『あいつらは人非人(にんぴにん)だ、不良品なんだ、
刑務所に入れて死刑にして忘れ去ってしまおう』
と、異端視するのではなく
誰でも多少は備えている程度の残虐性・倒錯性向と
うまく付き合っていけるように
社会・文明全体が取り組むべきだ」
という思いを強くしました。
いち市民であるジェフリー・ダーマ―の父の苦しみ
最終的に犯罪に至った息子の性質要素とまさに同じものが
振り返ってみれば自分の人生にもそのままある、と罪悪感に苦しみ
何か防止策が打てたのではないかという胸を切る後悔
それこそを私たちは「異端視」すべきでなく
我がものとして考えることが、遠くても救いにつながると
バタコは考えます。
高井さん記事からの引用 (父が思う「息子と同じ」側面):
■「私もなにかをいつまでもつなぎとめておける方法、永久に手中におさめておける方法をさがして、人生を生きてきた。」
■「もっと重要なことは、永続性や安定を求める欲求がしだいに支配にたいする欲求を芽生えさせていったことだ。それに伴って、支配できないものへの恐怖心も生まれてきた。」
■劣等感に悩んだ自分の幼少期、青年期を振り返り、近所の少女に催眠術をかけた際の性的な要素をおびた興奮や、肉体的なコンプレックスを動機にボディービルディングに励んだこと、学校で一目置かれる存在になるために爆発物を作ったことなどを告白する。
↑↑↑ どれも、完全に「普通に、どこの誰にでもありそうな話」としかバタコには思えません。
文化・文明として現代社会におけるこの「きっかけとしては、誰にでもあるような」ところから暴走し始める「残虐性・倒錯性向」をどうなだめ昇華させるのか
への答えの一つが
日本のマンガやサブカルチャーだったのかも!と今バタコは思っているのです。
(続く)
次回は、
「イヤそもそも、バタコはアニメとマンガやサブカルを知らなすぎ」な件
について書く予定です。
アナタは自分の中に闇を見ることがありますか?
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