今日のアウトテイク#72「個人経営書店のコワーキング併設について ほか」【メンバーシップ特典】(2024-01-29)

<アウトテイク>
・SNSに投稿する前の推敲(もしくは配慮)なしのメモ
・投稿せずに、いや、やっぱりやめておこう、と思った殴り書き
・ブログ記事として仕上げる前の思索の断片、または下書き
・一部、筆が乗ってきて文字数多いのもあり〼
・たまに過去に書いたネタを展開する場合も
・要するに「伊藤の現在地点」

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今日はちょっとリキ入ってしまった。


#今日のBGM

#今日のコトバ

"自分自身であれ。他の席はもう埋まっている。"
(オスカー・ワイルド)

#R.I.P

親戚のひとりが亡くなった。
ぼくよりうんと若い人だ。
あまり交流はなかったけれどそう遠い人でもない。
大病を患い手術の甲斐もなく逝ってしまった。
人生にいろいろあったことはあとから聞いた。
その最後は寂しいものだった。
けれども、覚悟はできていたようだった。
彼なりに生きて、彼なりにけじめをつけて逝った。
悲しいことではあるけれども、それでよかったのだろうと思う。
自分の最後をどうするか。
日頃、そんなことは頭にはない。
けれども、いつかその日が来る。
その日が来ても慌てないよう一日一日を丁寧に生きていきたい。
彼の魂が安らかであることを祈る。

#腰痛の原因

この冬は腰痛がヒドイ。
もとより足が悪いのだが、それが原因かどうか判らぬまま、腰から尻、太もも、ふくらはぎがズキズキ痛い。
痛み止めを飲んだりしても、いまいち効果がない。
運動不足もあるが、やっぱり歳だな、と思ってたら家人が温めろと言う。
で、温湿布を貼り、腰にはるカイロを貼ったら、あらま、すんごい楽になった。
なんだ、原因は「冷え」だったのか。
あの人、もしかしたら名医かも(違う)。

#読みかけライブラリー『コモンの再生』

近く文庫版が出ると聞いて、あ、そういえばと思い出し、積ん読の山からこれを引っ張り出してきて拾い読み。

コモンというのは、いわゆる「共有地」のこと。ちょっと長くなるがとても重要なので、まえがきから引用すると、

「コモン(Common)」というのは形容詞としては「共通の、共同の、公共の、ふつうの、ありふれた」という意味ですけれど、名詞としては、「町や村の共有地、公有地、囲いのない草地や荒れ地」のことです。

昔はヨーロッパでも、日本でも、村落共同体はそういう「共有地」を持っていました。それを村人たちは共同で管理した。草原で牧畜したり、森の果樹やキノコを採取したり、湖や川で魚を採ったりしたのです。

ですから、コモンの管理のためには、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りが必要になります。

(P.3)

「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」というのは、コワーキングも同じ。だから、ぼくはコワーキングをコモンのいち形態と考えてる。
そして、こう続いて思わず膝を打った。

コモンの価値というのは、そこが生み出すものの市場価値の算術的総和には尽くされません。そこで草を食べて育った牛の肉とか、採れた果実やキノコや、あるいは釣れた魚の市場価値を足したものがコモンの生み出す価値のすべてであるわけではありません。

それよりはむしろ、「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りができる主体を立ち上げること、それ自体のうちにコモンの価値はあったのだと思います。

(P.3-4)

ここ→そういう気配りのできる「主体」を立ち上げること自体に価値がある。まさに仰るとおり。で、その主体とは誰なのか?

それは「私たち」です。そうですよね?「私たちの共有するこのコモンを、私たちでたいせつにしていきましょう」という言明を発することのできる主体は「私たち」です。

つまり、コモンの価値は「私たち」という共同主観的な存在を、もっと踏み込んで言えば共同幻想を、立ち上げることにあった。「私たち」という語に、固有の重みと手応えを与えるための装置としてコモンは存在した。そう僕は思います。

(P.4)

ぼくが可能であればユーザーが運営にもコミットする、いわゆる自治運営型のコワーキングのことを話すのは、上記のような考えがあるから。

ただ、資本主義的には私有された土地で各々が頑張って稼いでくれたほうが正解で、近代にイギリスで起こった「囲い込み」は「コモンの私有化」に他ならないと著者内田樹先生は説く。なるほど〜。

ただその代わりに、村落共同体も消滅し、相互扶助の仕組みもなくなった。その延長線上に、土地を失い流民化した都市プロレタリアを救うべく、マルクスとエンゲルスのあの「コミュニズム」が生まれることになる、と。あー、そこに行き着くのか。

イデオロギー的なことはともかく、ぼくがこの本でビビビときてるのは、先生が再生を目指しているのはマルクスみたいなでかい話ではなくて、随分こじんまりしたもの、かつて村落共同体が共有した草原や森や教会や広場、いわば、「ご近所」共同体であるということ。

そこに、コワーキングも仲間に入れていいんじゃないかと思っている。いや、今や、生活圏内にワークスペースを持つことが当たり前になってきていることを考えても、コモン=共用のワークスペースとしての、「ご近所」共同体としてのローカルコワーキングの存在価値は非常に高いと思う。

とか書いてたら、思い出した。12年前にこの本を翻訳出版したことは先日も書いたけれど、

内田樹先生のご著書から引用した部分があったので、献本させてもらったんだった。その節は有難うございました。

この本、いや、『コモンの再生』のほう、読者の質問に答えるというQ&A方式で進むので読みやすい。3月には文庫版が出るらしいので、一応、オススメしておく。

#個人経営書店のコワーキング併設について

昨日、読んだこの投稿で、最近の個人書店の苦境がより露わになった。非常に長いが、ひとつの制度、システムが終わりを告げているのではないかと思うので、一読されたし。(※Facebookにログインしないと読めないかも)

「今、ひとりの書店主として、伝えたいこと」を、勇気を振り絞って書いてから、  雨にも負けず、嵐にも負けず、雪にも負けないと踏ん張っていたが... ...

Posted by 二村知子 on Saturday, January 27, 2024

この方は、大阪の隆祥館書店という書店を経営されていて、ことに本好きには有名な方。投稿にもあるように、個々のお客さんのニーズをちゃんと把握して対応する姿勢は、コワーキングマネージャーとしても大いに見習いたいところ。つまり、プロファイルができてるってことですね。←ここ、大事。

要するに、出版取次(以下、取次)の振る舞いが小さな書店を苦境に陥れている、という話だが、そもそも論として、この「取次」なるシステムがもはや制度疲労しているのではないか。

ここで「取次」とは何か、を引くと、Wikipediaには、

出版とその関連業界で、出版社と書店の間をつなぐ流通業者を指す言葉。単に取次とも。取次と書店との関係は、卸売問屋と小売店の関係に当たるが、委託販売制度により、書店が在庫管理を考えなくて済むのが、他の業種との大きな違い。

(Wikipedia)

とある。問題は「委託販売」というところ。もう少し、わかりやすい解説がここにあった。

本以外のほとんどの商品は、一度仕入れたら不良品でない限り、返品することはできません。しかし、本だけは書店が仕入れても、売れ残ったら出版社に返品できるのです。このため、出版社は本の注文があったからといって、その分が全部売り上げになるとは限らないのです。

100冊のうち10冊返品なら売れたのは90冊となります。普通の商品なら100個売れたら100個分すべてが売り上げとして計上できますが、本はそうではないのです。このように、流通の仕組みが通常の商品とまるで違うために、取次という独特の仲介業者が必要となるのです。

取次は本を卸す問屋で、本はこの問屋を通して全国の書店に運ばれます。昔からある大手の出版社は、それぞれ専用の取次店を持っていて、本の卸と返品処理を依頼しています。前述しましたように本は返品可能な商品ですから、それを一手に引き受けてくれる取次店は、書店にとってなくてはならない存在なのです。

日本では、毎日、膨大な数の本が出版されている。それを、個人書店がいちいち発注するのは手間が大きい。そこで、取次がどこそこの書店にこれこれという本を何冊、というように、いわゆる「配本」する。

で、この配本システムの中に「返本」も含まれる。ここでいう「返本」制度とは、「書店が発売元から預かった書籍を店頭で販売し、発売元に売れた分の売上代金と売れなかった書籍(商品)を戻すという仕組み」のこと。委託商品だから、一定の期日以内なら返品できるのが、本の特殊なところ。

書店も発注が楽だし、出版社も全国の書店にそれぞれ発送しなくていい。ただ、問題もある。それが、今回のような書店が望む本が必ずしも入ってこないということが起こりうる、ということ。(逆に、どこでも同じ本ばかり並んで書店が個性を失う、ということもある)

こういう状態が続くとすると、二村さんも書いてるように「書店を廃業に追い込むこと」にもなりかねない。「私は、いったい何と闘っているのだろう。ベストセラーを何十冊も欲しいと言っているわけではない」という言葉が悲痛だ。

いま、全国で個人経営の書店が姿を消していっている。ここにも書いたが、2022年までの14年間に、実に4,868店(!)もの書店が閉店している。

で、また考えた。

コワーキングと書店、とりわけ個人書店とのミックスについては上記のアウトテイク#24に書いたし、シェアリングエコノミーとしての本とコワーキングの関係についてはここに書いたが、

逆に、書店を主体としながらコワーキングを併設しても全然いいはず。

事実、東京神保町の神保町ブックセンターには、一階奥にワークラウンジと称するコワーキングスペースがあり、ぼくも過去に利用したことがある。個人経営書店ではないが、スタイルとしては判りやすい事例。

もうひとつ、新潟三条市のSANJOPUBLISHINGは、新刊、中古本を販売しつつ、ZINEの制作ができるコワーキングスペースを持っている。こっちは完璧に個人経営。

そのことはここに書いた。

ちなみに、神保町ブックセンターもSANJOPUBLISHINGも、喫茶エリアを持っている。コワーキング曼荼羅の「食」のところもしっかり抑えている格好だ。

町の本屋さんがなくなるのは、もちろん個々の経営の問題ではあるけれども、その地域にとっては前章の「コモン」がなくなるのに等しいぐらいの喪失感がある。そこをなんとか維持するために、書店は続けつつ、生活圏内のコワーキングとしてもスペースを割くことができたらいいのではないか。

その話は、取次を通さず、独自に出版社から本を仕入れる、いわゆる個人書店のここ数年の勃興ともシンクロする。それぞれの店のカラー、個性、キャラクターを大切にした品揃えが売り物の個人書店は、ローカルで運営するインディー・コワーキングの反コモディティ化とも通じるところがある。

先の記事でも、「本もマネージャーと同じように、そのコワーキングのホスピタリティが現れる」と書いた。くだんの隆祥館書店の顧客対応はホスピタリティそのものだ。

それこそ「みんなが、いつでも、いつまでも使えるように」という気配りができる主体として、コワーキングとのコラボを考えてみてはどうだろうか。リモートワークやハイブリッドワークが常態化するこれからの時代、きっと、地域住民には喜ばれると思うのだが。

ということで、今日はこのへんで。

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