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【ほぼ1,000字#1】本に赤線を入れることが脳に及ぼす効果について

今日、Facebookで「思い出の数々を振り返ってシェアしてみよう」てのが流れてきて、基本的に過去はあまり振り返らないのだけど、気まぐれにクリックしてみたら、7年前の今日、この本のことを書いてた。

「へ〜、どんな本だっけ?」と思ってAmazonで見てみたら、「最後にこの商品を購入したのは2014/6/8です」と表示されてる。「え?買ったんか?」

そういえばと思って本棚を漁ってみたら、あった。「でも、読んだ記憶がないから積ん読してたんだろな」と思ってページを開いたら、あらま、あちこちに赤線引いて、ページの耳を折ってる。「よ、読んだのか。全然、覚えていない…」

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ところが、その赤線を引いた部分をパラパラと拾い読みしてみると、日頃、自分が考えていることや書いたり話したりすることと、趣旨としてほとんど同じことが書いてある。まるで自分が書いたみたいに。

もちろん、そんなはずはない。で、気づいた。

本のことも赤線引いたこともすっかり忘れているけれども、読んだときにビビビときたことは脳がちゃんと覚えていて、その後、時間の経過とともにそれをいわば自分のものとして無意識に身体化していたのではないか。

その経過の中で、誰かに対して自分もその言葉を使い、その意見を語り、その思想を表明しているのは確かだ。だから、いま読んでも「そうそう、そうなのよね」と頷く。まるで、自分が考えていることをこの著者が代弁してくれてるみたいに。

だが、実はそうではなくて、もともと、著者が書いたものに自分が共感して、脳内に保存し、咀嚼して、吐き出したり飲み込んだりしているうちに次第に肉付けされたり削ぎ落とされたりして、自分流の表現に変わっていったんだろう。言ってみれば、「編集」だ。

つまり、「赤線を引く」ということは、これまでは、あとから読み返したときに肝心どころを拾うのに便利だから、と思ってたが(それも、今回みたいにないことはないけれども)、実は、脳にインプットするための、いわばスイッチなのではないか。

だから、本のことや赤線を引いたことを忘れてても、脳内にはちゃんとその情報だけが保存されてるし、いつでも取り出してきて使える。それさえキープできれば、本のことは忘れてもいい。むしろ大事なのは「編集」。そういうことかも。

…と書いてみて、そんなことは当たり前か、と思ったけれど、意識したことがなかったので記しておく。

ところで、それで思い出した。先日、この著者の新著を買ったんだった。

こっちは正真正銘、積ん読になってるので、いずれ読む。赤線引きながら。


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カフーツ伊藤
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