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墨染の桜


 ある家の使用人は遺言で、主人の遺影に掛けた桜襲の袿はそのままにせよと言い残した。
もちろん霊柩車の中で火葬場に遺影を運ぶ時などは普通の黒いリボンを結んでおくのだが、家に飾る時には袿が掛けられる。それにはある伝説が関わっていた。あくまでも彼だけの遺言である。以下は使用人の一族に伝わる言い伝えであった。主人の一家に関わる。
 ある女が男に恋をした。見合いをしてお互い意気投合。結婚するまでにいたる。彼は当時には珍しい金物のネックレスを贈った。翡翠のブロオチがあしらわれおり、控えめな彼女をささやかに引き立てた。彼女もそのネックレスを毎日首にかけて幸せそうに微笑んでいた。彼の優しいに思いを馳せながら、眠る時には優しく胸元にかけて撫でていたのである。しかし悲しいことに、結婚式をした後に亡くなることになる。
 台所から火が起こり、屋敷全体を包む火事となった。彼女は逃げようとしたが、手遅れだった。ネックレスに火がまとわりついて、金物のそれは熱く熱く焼けて彼女の首に火傷を負わせたのである。
 そして生死をさまよった挙句に亡くなった。葬式後に悲しみに染まった彼は今度こそ、彼女の美しい姿を彩りたいと着物を仕立てた。翡翠ブロオチが映えるような見事な桜襲。その着物は男をなぐさめ、彼は死ぬまで書斎に掛けていたのである。そして、幾年月が流れ彼は死んだ。老衰であった。何回も持ち込まれた縁談を断り続けた彼は一筋、恋を貫き続けたのである。

 葬儀が終わったその夜、誰もいない葬式の会館の中で女が棺の前で踊っていたのを泊まっていた使用人が見つけた。
 不思議だった。美しく、黒いドレスを纏った女は舞っていた。葬式らしく、墨染の姿。翡翠のペンダントを付けて。桜襲の袿を羽織っていた。葬式にはちと鮮やかである。
 墨染のマーメイドドレスに羽織った桜襲の袿をくるりくるりとひらめかせ、回る回る桜の裏の萌黄が見え隠れ。跳ねるペンダント。袿は吹かれていないはずの風に乗ってしゅるりと肩から脱げた。するするとうねり、まるで腕に巻きついた蛇が餌を見つけて手の先へ進むようだ。くねらせるように袿は遺影の傍へ。遺影の彼の微笑んだ肩を抱きしめるようにギュッと袖をリボンのように結ばれた。後ろから抱きしめるように。彼の一生を見守ってきた使用人の息子は何も言えなかった。彼女を尊重したのである。そして彼女は消えていった。
 葬式兼、二回目の結婚式である。明治の頃だった。
 それ以降、使用人は主人の遺影だけは袿を重ねていた。使用人の心遣いである。使用人の一族の矜恃に彼女も微笑んだことだろう。翡翠のように鮮やかな瞳が贈られた。彼女の贈りものである。彼が彼女に贈ったように。

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