いろいろな詩の読み方
高校生の頃に娯楽的に読んでいたシドニィ・シェルダンのように、ハラハラドキドキして詩を読むことはないが、一行一行言葉の音楽を感じるのは趣がある。
谷川俊太郎は「言葉には意味があるので音楽にはなり得ない」というようなことを言っていたが、言葉の意味を知ろうとする私たちは、確かに音楽として言葉を受け取ろうとすると難しい。
だが、意味を受け取っていたとしても、文字を読む時の頭の中の音で、音楽を感じとる詩集に出会うことがたまらなく好きだ。
例えば、広瀬大志『毒猫』(ライトバース出版)、である。よくわからない詩が好きで(わかりやすい詩が嫌いという意味ではない)、最初に読んだ時から厳かな雰囲気のある言葉に音楽を感じていた。
巻頭詩の「光色の羊歯」で心を踊らせた。枝葉を刈り取った言葉に、リズムが付けられ音楽的に聴こえる。「音を見失うまでの」楽しみ方なのであろうか。私たちは言葉に意味を見出だしてしまう。
あの頃のようにシドニィ・シェルダンを読むようにはいかないが、詩を読むことは言葉をよく咀嚼する力にもなり得る。娯楽的ではないが、睡眠の前の楽しみにはなってくれる。
いろいろな詩の読み方があっていいのではないか。その詩の良さがわかっていても、言葉にするのは難しい時、言葉以外の方法で理解しているのかもしれない。
※敬称は省略させていただきました。