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両親に敷かれたレールだと思っていた

私の父は元消防士で、母はクリニックで事務をしていた。
共働きだったため、子供の頃は同居する祖父母と過ごす時間が長かった。


父は仕事ができる割に子煩悩で、中学・高校の部活動には欠かさず顔を出してくれるような人だった。
一方で自分勝手な部分もあり、母はよくそれを嘆いていた。


母は子どものためにと、一生懸命働く姿を見せてくれた。
毎日帰宅は20時近くで、いつも「大変だ」が口癖だった。
そんな母は子どもへの期待感が強く、私が学校で表彰されたりするととても喜んでくれたが、幼ながらにプレッシャーを感じていた。


そして私は徐々に
評価されないと自分には価値がないと思い込むようになっていった。


母は、自分が幼少時代の苦労話をよく私に話して聞かせた。
自営業の両親の元で育った母は金銭的にとても苦労をしたのだと。
そのため、私には安定した公務員になってほしいと願い、幼い頃から私に見えないレールを敷いていった。

父も同時に自分と同じ公務員の道を歩む未来を期待していた。
「女性にとって公務員ほど恵まれた仕事はない」と私に刷り込んでいった。


子どもは親を喜ばせたいものである。
私はいつの間にか両親の理想の子どもを演じるようになっていった。


成績はそれなりに上位をキープし、スポーツもまずまず出来た。
書道や絵画コンクールで賞をもらうこともあった。
二人はいつも褒めてくれ、私は褒められると嬉しかった。


そんな私が看護師を志したのは、そんな両親の影響はあったと思うが、私なりに人の役に立ちたいと思ったからだ。


看護師という職業に憧れを抱いていた。
だからきつい実習も耐えられたのだと思う。


しかし、就職先を決める際は、親の喜ぶ顔が見たいと思ってしまった。
看護師になるという夢が叶った途端、その先の未来が見えなかった。

どんな看護師になりたいのか、そのためにどこで働きたいのかわからなかった。


私は公務員になった

公立病院に就職するということは公務員になるということ。


両親は喜んだ。
きっと自慢の娘だったことだろう。

私自身も初めは良かった。
仕事を覚えるに従いやりがいを感じ、充実した日々を送っていた。

しかし、他人の評価でしか自分の価値を見出せない私は、徐々に苦しくなっていった。

同期より早く出世しなくてはと、謎のプレッシャーを自分自身に与えていった。


そして気づいた。


自分の本当の気持ちを置き去りにしてると。


自分がやりたいからではなく、人から褒めてもらうために頑張っているのだ。
常に他人軸で生きてきた私は、その生き方では幸せを感じることはできなかった。


適応障害という壁にぶつかった今、ようやくわかった。


私は、いつでも自分の人生を選択することはできたはずだ。
でも、それをせず誰かの期待に応える道を選んできたのは自分自身だった。


ここにきてやっと理解できた。


親は子の幸せを願っただけ


もう私は、私が敷いたレールの上を走り続けていたのだ。


今はただ「分岐点」にいるということだけの話である。


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