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【小説】スペース 前編

 いつものように用を足し水を流してトイレから出ようとすると、何かが引っかかっているのか、扉が開かない。おやと思って、ノブをガチャガチャ回して強く扉を押してみても、ピタリと閉ざされたままである。

 はて、どうしたものか? 便座にもう一度腰掛けて考える。スマホがあるなら電話をかけて助けを求めることができるけど、生憎手元にない。机上で充電中である。思い切り体当たりすれば、扉は外れるか、壊れるかして脱出できるかもしれない。しかし、それは最終手段だ。

 焦るな、落ち着けと自身に言い聞かせる、こういう時こそ、落ち着いて解決策を考えるんだ。図らずもロダンの「考える人」のポーズをとっていることにふと気づく。ちょっと面白いと思ったけれど、それを伝える手段もなければ、相手もいない。そもそもこの面白さは本人にしかわからない。いや、今はそんなことはどうでいい。

 はたと膝を打つ。簡単なことだ、窓を開けて、大声で助けを求めれば良い。……しかし、このトイレには窓はない。窓のないトイレなんて、星のない夜空のようなものではないか。あるいは、翼のない鳥、はたまた風刺のない漫画か。フツーはトイレに窓ぐらい付けるものだろう、と知りもしない設計者への怒りがふつふつと沸いてくる。

 大丈夫、焦ることはない、落ち着くんだ。会社でも、駅でも、喫茶店でも、レストランでもトイレには窓がないではないか。単身者用アパートのトイレに窓がないぐらいで大騒ぎすることもない。でも、一人暮らしだから、トイレに閉じ込められた時に、家族が帰ってきて外から開けてくれるということは決してない。じゃあ、窓ぐらい付けろよと言いたくもなる。

 それにしても、いつもは中でニュースをチェックしたりするのに、なんでスマホ持って入らなかったかなあ。それはなぜかと言うと、単に衛生的ではないというのとは別に、仕事のできる人はトイレにスマホを持ち込まないという記事を読んだからだ、スマホで、それもトイレの中で。

 でも、考えてみればスマホをトイレに持ち込まなかったら、仕事ができるようになるというわけではない。いつかきっと鍵が壊れて閉じ込められることになるから、むしろスマホはトイレに必携なのだと声を大にして言いたい。

 大丈夫、水はある。水だけはいくらでもある。水だけで一週間は生き延びられると聞いたことがある。そのうちに、出社してこないことを不審に思った会社の人間が訪ねてくるだろう。そんなことがあった。総務の石井さんが無断欠勤が続いて、連絡もつかず、警察官立会いのもと鍵を開けてもらうと、とっくにコト切れていたという。まだ四十半ばの働き盛りだというのに突然死だ。

 あ、でも、俺、リストラされたんだった。だから只今絶賛求職中。故に会社から人が訪ねてくることもないってわけ。

 窓がなく、スマホもなく、訪う人もいないわけか。ヤバいな、落ち着いてもいられない、そう思うと突然恐怖に襲われ、「助けてくれ」とおっかなびっくり口にしてみる。が、声は狭いトイレの空間に響くだけで、何の反応もない、もっと大きな声で叫ばなければダメだ。ドアをどんどん叩いて、「おーい、だれかー!」と叫んでみる。「たすけてくれー!」

 大丈夫、叫んだからといって、すぐに救援が駆けつけることはないってのは想定内だ。いや、負け惜しみだ。扉の外は玄関とキッチンになっているから、タンク側の壁を叩いてみてはどうか。いや、隣人はついこの間引越したばかりで、空室になっているのだった。マジでどうしようと頭を抱えて、しばらくしてふと気づくと又しても考える人のポーズをとっている。

 ……もうどれぐらい時間が経ったのだろうか? 十分だろうか、それとも一時間だろうか、はたまた半日が瞬く間に過ぎたとか。わざわざ腕時計をはめてトイレに行く者もいないし、窓がないから日の移ろいもわからない。起きる時間、会社に行く時間(もう行ってないけど)、飯を食う時間、寝る時間……etc.スケジュールで区切られていたはずの時間がのっぺらぼうになってしまった。強いていうならば、ずーっとトイレにいる時間だ。このままずーっと死ぬまでトイレにいる時間が続くのだろうか。あかん、大丈夫じゃない、俺はここで死ぬのか。

 あーあ、つまんない人生だったなあ……。よし、もしここから出ることができたなら、その時は、その時こそは心を入れ変えて真剣に職探しすることにしよう。就職が決まったら、寝坊、遅刻、サボタージュをしないよう頑張ろう。酒も煙草も止めだ。女遊びもしません。真面目な女性を探して結婚して子どもをつくって、少子高齢化に抗うのだ。献血して、寄付して、ボランティアして社会に貢献しよう。ここから出ることさえできれば、俺は生まれ変わることができる……神様、聞いてますか?

(続く)

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