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『百年の孤独』を無謀にもディスってみる

『百年の孤独』が文庫化され、爆発的に売れているらしい。たしかに都心の大型書店でもコーナーができて山積みになっている。

 ずいぶんと昔に読んだ作品だけれど、(内容以外で)色々と思い出されることがあるので、これを機に書いてみたい。ほとんどネタバレなし、というか内容をほとんど覚えていないので(ずいぶんと昔に読んだものであるがゆえに)、ほとんどネタバレの仕様がない。

 海外の、それも長編文学作品がベストセラーになることは珍しい。また、そういう超話題作に限ってなかなか文庫化されないものなのである。たとえば……海外の、大長編の文学で、しかもベストセラーになった作品というと……さて、何があったかな。『ダ・ヴィンチ・コード』とか?……いや、これはいわゆる文学作品ではない。それにすぐに文庫化された。

 そうではなく……たとえば……ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』とか。そもそも、なかなか翻訳されなかった。映画がヒットして(といってもミニシアター系)、『薔薇の名前百科』とか『薔薇の名前辞典』なんて本が次々と翻訳されたのに、肝心の本体がなかなか刊行されなかったことを覚えている。そして、未だに文庫化されていない。博覧強記の顕学による尋常ならざる知的アンチミステリー『薔薇』の方が自分的には『百年』よりずっとおもしろかった。

 自分が学生の頃は、今ではちょっと考えられないが、ラテン・アメリカ文学がブームで(下火になりつつあったかもしれない)、出版ラッシュであったように記憶している。
 大学一年生の時に世間話のつもりで友人に好きな作家を問うたら、
「うーん、カルペンティエルかな」と答えられてびっくり仰天した覚えがある。誰だよ、それって。
「で、君は?」
 と訊かれて、ぐっと詰まった。ここは太宰治とは答え辛い。
 ドストエフスキーとかカミュとか読んで、自分は頭が良いと自惚れていた田舎の文学少年が出鼻を挫かれた形になる。

 カルペンティエル(それから、カルロス・フエンテス)、いつかその大長編に挑戦してみたいと思いながらも幾星霜、未だアンソロジーで短編1編しか読んでない。

 いや、マルケスの話でした。もちろん、当時『百年の孤独』の評判は身近なところからも聞こえてきた。
「いやあ、巻を措く能わざる面白さだったね」
 などと鼻の穴を広げて、ドヤ顔で言う友人(カルペンティエル好きとは別人)もいたほどである。
 要はページをめくる手が止まらなかったという意味であるが、自分の人生では、巻を措く能わずなんて表現を実際に口頭で使った人は、後にも先にも他にいない。

 しかし、上質な文学とは、そのような感想を抱かせる本とは根本的に異質なものであるはずだ。徹夜本である『ダ・ヴィンチ・コード』などとはちがって、むしろ何度でも巻を措くものでさえあるのかもしれぬ。『薔薇の名前』も、読んでいて翻訳家の苦労が偲ばれるような文であった。

 食わず嫌いからラテンアメリカ文学をなんとなく遠ざけていた自分であるが、さすがにマルケスだけは中短編を読んだりした。しかし、代表作の長編になかなか手が出なかったのは、なんだかしっくりこなかったからである。それがとうとう意を決したのは、実は池澤夏樹氏の『百年の孤独』をテーマにした講演がきっかけであった。有名な作家が大学に来るということで、一冊も読んだことがなかったけれど(当時も今も)、駆けつけたのは、四年生の時だったか。しかし、彼の話で発奮したわけではない。

 池澤氏がこの時の講演で何を語ったのか、実はよく覚えている、『百年』のストーリーよりもずっと詳しく覚えている程である。彼はマルケスを絶賛するために、驚くべきことに私のリスペクトする巨匠や文豪を引き合いに出し、古臭い遺物としてこき下ろしたのである、それどころか嘲笑ったのである(なんと薄っぺらい方か)。偉大な作家に対するリスペクトを欠いた振る舞い、どころの話ではなく、自分にとって大切にしていたものを公衆の面前で踏み躙られたようなもので、これはどうにも看過し難い事態であった。

 そうですか、では、あなたの絶賛する『百年の孤独』とはどんなものであろうか、そのような経緯から読み始めたというわけである。

 結果、マジックリアリズムというヤツには、最初から最後まで、何から何まで感心しなかった。マジックリアリズムには、マジックはなかった。文学体験にマジックがあるとしても、必ずしもマジックリアリズムにあるわけではない。フィクションに魔法使いが出てきたり、不思議が起こったりしても、それはファンタジーであるかもしれぬが、読む人の心にマジックが生じなければいかなる驚異もそこにはない。

 誰もが感嘆し、その興奮を熱く語るような長編小説であるというのに、読めば読むほど白けてしまった。長編のちょうど半ばあたりに、絶世の美女がある日突然、食事中だったか、何の前触れもなくふわりと宙に浮き、そのまま空に上り、みるみる小さな点となってやがて見えなくなってしまうという場面がある。これの一体どこがおもしろいんじゃ。もう、なんでもありじゃん。

 この場面ばかりを覚えているのは、そのイメージが鮮烈で美しかったからではなく、まったく逆の情動が心のうちに芽生えたからである……。

 あれから何十年も過ぎて、とうとうこの伝説の文学作品が文庫化され、大ベストセラーとなった。そしてなんとNetflixでドラマ化である。あのバカバカしくも空疎な、美女の文字通りの昇天シーンを映像で見てみたい気もする。いや、きっと観る。もう目裏に見えているような気さえする。そしたら、ここに感想を書くことにしよう。

(了)

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