痛みについて(転)

救急病院に運ばれた俺は、そのまま入院することになった……

 ちょうど過酷な繁忙期に、同僚の誰もが睡眠を削って、いや命まで削って働いている時期に、正々堂々と会社を休んで思う存分寝て、上げ膳据え膳で好きなだけTVを観られるという幸運、幸福。もうこのまま余生はずっと入院していて良いぐらいだなどと思ったのは、しかし最初の二、三日のことで、すぐに何もすることのない退屈に苦しめられ始めた。充分寝足りてしまうと、横になって安静にしていること自体が苦痛だし、TVは朝からずっと同じニュースばかりを繰り返し(そもそも朝から晩まで見続ける人を前提に番組をつくっているわけではないのだろう)、昼下がりの再放送のドラマは陳腐で見るに耐えない。全身を満遍なく倦怠感が浸してゆく。それだけが楽しみだった病院食にしても味つけは薄く量が少なく、要するに全然物足りなく、夕方四時の早すぎる夕食を瞬く間に済ませてしまうとひもじさが募って、特に好きでもなかったはずのジャンクフードが無性に恋しい。それに救急病院だからなのか、風呂どころかシャワーもなかった。

 薬で痛みが引いてしまえば、結石が体外に排出されなくても、なんら健康人と変わるところない病人なのである。痛みは忘れた頃にやって来たけれど、痛み止めがあるのだから、もう恐れることはない。この薬が開発される前に結石になった人は、全くお気の毒としか言いようがないなあ。

 それは前触れなしにドンコ、ドンコ、ドンコ、ドンコ、ドン、ドンとやって来る。おっ、また来やがったな、と心得たものである。ナースコールのボタンをいつでも押せるように握っているから余裕綽々で、よし、どこまで我慢できるか限界まで挑戦してみるか。下唇を噛んで脂汗を流しながら粘ってみようとするが、情けないことに全然長続きしないで、すぐにボタンを押してしまう。何か音が鳴ったりするわけではなくて、反応している印に横についてるランプが赤く点灯するだけだ。もう一回押してみる。いつもなら大体30秒ぐらいでナースが駆けつけてくれるのに、いくら数えても誰も来ない。この頃には個室を出て相部屋にいたけれど、たまたま自分一人だけで、開け放しの扉から見える廊下に人通りもなく、しんと静まり返っている。耐えがたい痛みに身悶えしながら、パニックに襲われ狂ったようにボタンを押しまくった。
 ……やがてまだ若い女性看護師が「どうかしましたか?」なんて言いながらのんびり顔で病室をのぞいたとき、そこに鬼の形相の患者を見出したはずだ。
「このアマ、呼ばれたらさっさと来ないか、殺す気かよ! とっとと痛み止めを打ちやがれ!」

 当時は、病院では携帯電話の使用は一切禁止されていたように記憶している。閑を持て余すと、小銭をかき集め一階待合室の緑色の公衆電話を独占して、片っ端から友人知人に電話したものだ。
「もしもし、俺だけど、今どこにいると思う? 病院、入院中なんだよ。いやーまいったよ、実は結石になっちゃってさ、それがすんごい痛いの。どれぐらい痛いかっていうと……」ここまで言うと言葉に詰まり、実のところどれぐらい痛いと説明すれば良いのか、巧い喩えが見つからない。「まあ、人生最大の激痛ってこと」

 痛みにも質があり、量がある。心の痛みは別ものとしても、たとえば扉に指を挟んだときの痛さと、風邪の頭痛、虫歯の歯痛では、それぞれ質的にちがっている。ズキズキしたり、ガンガンしたり、キリキリしたり。手の甲をつねってみて、だんだん力を入れてゆくと痛みが増してくるのは量的なちがいだ。結石の痛みを経験していない人にいくら言葉で説明したところで、その質と量など想像もつかないだろう。加えて、人によって鈍感だったり鋭敏だったりもする。

 そもそも痛みとは何なのか。末梢神経が刺激を感知すると、電気信号が神経を流れて脊髄で化学物質に変換され、それを脳が受け取るという感覚システムの一種である。そして、怪我や疾病に気がつかない無痛症というものを考えてみれば、痛みが進化的な適応だということは得心がゆく。

 釣り好きの先輩が言うには、釣った魚が手の中でびちびちと跳ねるのは、人間の体温が熱いからだという。なんとなく俗説ではないのかと疑っていたのだが、調べてみるとそうでもなく、たしかにトロ(脂身)は舌の上でとろけるではないか。近頃めっきり見かけることのなくなった水銀の体温計が42℃までしか表示がないのは、それを超えると65%が脂質である脳が溶け出してもはや生存できないからだと何かで読んだことがある。魚の場合はずっと低い温度(ヒトの体温)で脂質が溶けるのだとすると、先輩は正しかったことになるし、更に魚には痛覚があることになる。活き造りで切り刻まれて口をパクパクさせてる魚は、もはや想像を絶する痛みに喘いでいるのかもしれない。ひょっとすると大量のエンドルフィンが放出されて、至福の境地にある……ということはなさそうである。

 痛みが進化的な適応なら、魚に痛覚があっても全然おかしくない。がん検診で話題の線虫は、神経細胞を302個(ヒトは推定で86億個)しか持たないがゆえに、全ての神経回路の構造が解析されているらしい。匂い、温度、味覚などの刺激に反応するという(残念ながら痛覚の有無については触れられていなかった)。体長たった1mで口と腸と肛門しか持たないような線虫からしてそうなのだから、子どもの頃、塩をかけて溶かしたカタツムリや爆竹をくくり付けて飛ばした蝉にだって痛覚はあるかもしれない。なんたることか、その報いをいま受けていることにるのか。

(続く)

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