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ああ、バートルビー!

 メルヴィルの『バートルビー』を読んだ。押入れに積んでる文学全集の類いのゾッキ本をごっそり始末しようと縛っているうちに、捨てる前にせめてこの名高い中編小説くらいは、と思ったのである。

 ウォール街の法律事務所で働く(いや、働かない)バートルビーというまだ若い代書人の話である。

 語り手はバートルビーの雇用主で、「若年の頃から、もっとも気楽な生き方こそ最上の処世法とする深い信念にみたされてきた」と自己紹介している。「わしを知っている者ならみんなわしのことを抜群に『安全な』男とみなしている」とも。物語、というほどもない事の顛末はすべて彼の視点から、彼の観察に基づいて語られる。

 最初の方こそ熱心に仕事しているバートルビーだったが、書類の読み合わせや使い走りなどの雑用を頼まれると、

 I would prefer not to.

 と返答する。

 自分の読んだ集英社版世界文学全集『メルヴィル』では、「あまり気が進みません」「気が進まないんです」(土岐恒二役)などと訳されている。

「バートルビー、ちょっと郵便局までひとっ走りしてきてくれないかね?」
「あまり気が進みません」
「だめかい?」
「気が進みません」

 このセリフを検索してみると、『バートルビーズ』という芝居を書かれた方のブログがヒットし、そこに翻訳例がたくさん記載されていたので、引用させていただく。

柴田元幸「そうしない方が好ましいのです」2013
酒本雅之「せずにすめばありがたいのですが」1988
坂下昇「僕、そうしないほうがいいのですが」1979
高桑和巳「しないほうがいいのです」2005
留守晴夫「その気になれません/その気になれないのです」
杉浦銀策「その気になれないのですが」1983
木村榮一「せずにすめばありがたいのですが」2008
土岐恒二「あまり気が進みません」1979
原光『やりたくないのですが』1955
田中正二郎「気が進みません」1966
阿部知二「ごめんこうむりましょう」1961
北川悌二「行きたくはありません」1960
寺田健比古「いたしたくございません」1972
林哲也「したくありません」1948

 どんだけ訳されとるんじゃ。でも、調べた方、エラいです。

 ちなみにこのセリフは、Tシャツにまでなってます。なんでもありかよ(ちょっと欲しいけど)。

 皮肉な好みはしたくない? というのが皮肉ということか? うーん、複雑。

 それはともかく、この上司、かなり温厚なお人柄で、善良というより、お人好しにも程がある。あくまでも手荒な真似はしたくないのである。

「バートルビー!」
 返事がない。
「バートルビー!」とさらに大声を出す。
 返事がない。
「バートルビー!」とわしは吠えた。

 ほら、ナメられて、とうとう返事すらしてもらえなくなったよ。

 理知的に諭しても、怒りを露わにしても、情に訴えてなだめすかしても、この部下は動こうとしない。ただそこにいる。外出しない、飯を食ってる様子もない。

 やがて雑用どころか、本職の代書すらしなくなったバートルビーを、いよいよ雇用主は本格的に持て余す、だけではない。日曜日にたまたまオフィスに寄ると、なんとそこにバートルビーが。住んどる!

 で、どうしたのか?

 バートルビーひとりを置いて、事務所ごと引っ越した。びっくりである。せいせいしたと思っていると、新しいオフィスに以前の大家と新しい店子が血相変えて駆けつける。あの男は一体何者なのか、と。案の定、奴は部屋から出て行かなかったのだ。そこで力づくで追い出すと、昼は階段の手すりに座り、夜は玄関で眠っているという。

 気になって様子を見に行く。

 古巣の階段を昇って行くと、バートルビーが黙って階段の踊り場の手すりに座っていた。
「こんなところで何をしているんだ、バートルビー?」とわしは言った。
「手すりに座っているんで」と彼は穏やかに返答した。

 もはやあっぱれではないか。バートルビーの運命やいかに?

 さて、この本については、錚々たる哲学者たちが分析しているらしい。

作中で「せずにすめばありがたいのですが」という言葉とともに示されるバートルビーの拒否の姿勢は、しばしば現代思想家にも考察の題材として取り上げられている。例えばモーリス・ブランショは『災厄のエクリチュール』(1980年)において、この拒否の言葉を「言うということの権威すべての放棄」「自我の遺棄」「同一性の棄却」などとして捉え、それが「弁証法的な介入」を許さない、人を「存在の外」へ導くものとして論じている[4]ジャック・デリダは1976年のブランショ論「パ」で『バートルビー』に触れて以来しばしばこの作品を参照しているが、1991年の「抵抗」と題するシンポジウムではジークムント・フロイトの「死の欲動」および「反復強迫」からくる精神分析的な「抵抗」をうまく表すものとして『バートルビー』に触れた[5]

Wikipedia

 え?

またジル・ドゥルーズは、「バートルビー または決まり文句」(1989年。『批評と臨床』所収)において、「せずにすめばありがたいのですが」という決まり文句がある種の非文法的な表現と同じ性質を持つものであると論じ、それが「好みでないもの」を忌避すると同時に「好みのもの」までも排除していく破壊的な性格を持つものだとしている[6]ジョルジョ・アガンベンの論文「バートルビー 偶然性について」(1993年)では、この拒否の言葉と態度は神学的な「潜勢力」を持つ、個々人の意思を越え出たものとして捉えられている[7]

Wikipedia

 そういうこと?

 申し訳ないが、自分が『バートルビー』を読みながら思ったのは、「こういう人は、いるよ!」ということであり、真っ先に思い浮かべたのは詩人の尾形亀之助のことだった。それからオリバー・サックスの『レナードの朝』とか。

 実を言うと、ネタバレになるが、亀之助とバートルビーは同じ運命を辿ることになるのである。しかし、亀之助ばかりではなく、身近にも無為の人はいた。

 大袈裟で難解で格好の良いことを言っているようで、どうにも哲学者の言うことは信用できないね。

 弁証法やフロイトや神学なんて何の関係もない。バートルビーは、ドーパミンやアドレナリンの生成や受容体に異常があるとか、脳の病気なんじゃないのか。フィクションだから、もちろん正確な臨床ではないし、虚構のキャラをこれまた虚構のキャラが観察するわけだから、コトはシンプルではないし。そして、この作品は純粋に深刻な悲劇ではなく、抜群のユーモアが漂っているということはご理解していただけたかと思う。

 でも、こういう人はいるし、自分はそれを知っている。

(了)

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