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走る男 2/7話
先に夕食をとってしまうと、走る気力が失われてしまうから、残業で遅くなってもオフィスではプロテインバーなどで空腹をしのいで、帰宅すると着替えて先ず走るようになった。走る距離も時間も少しずつ増やしていって、家にいるのはほぼ睡眠時間だけになる。戻ってからシャワーを浴びて、味噌汁を火にかけお菜をレンジで暖め直し、遅いニュース番組でも見ながら、ひとりで夕食となる。晩酌はしない。
実家に戻るずっと以前、淳が適応障害と診断されて前職を辞める前から、夫婦の営みは絶えていた。もう悠子の方から求めてくることはない。適度な運動のせいか、抗不安薬と睡眠導入剤の使用にもかかわらず、淳は夢を見ることなしにぐっすり眠った。家族三人が揃う朝の食卓の方こそ夢のようだった。
日中忙しなく立ち働いているときは、余計なことなど考えない。テキパキとタスクをこなしているとワーキングハイとでも言うべき状態になって、どこにも不安なところはない。愛想がないとか、付き合いが悪いぐらいには思われているだろうが、業務に関してはそう評判が悪いとは思われない。
順調だ、すべてうまく行っている、俺はもう大丈夫だと自分を安心させる一方で、決して油断するなと言い聞かせている自分がいて、警戒心を常に働かせている。
「走りにいってくるよ」とジャージに着替えて淳が言うと、「うん」と顔も上げずに悠子が応える。
川沿いのランナーは淳一人ではない。夜も更けて、老若男女がちらほら走っている。淳よりの十も若かろう女性ランナーが颯爽と彼を抜かしてゆくと、後ろ姿だから風貌はわからぬが、思わず見惚れてしまうような見事に引き締まった臀部がジャージにぴっちり浮かび上がっている。腿の付け根がキビキビと交互に足を繰り出す。逆にずっと年上の、もはや老人と呼べるような年齢の男性もバタつきながらも淳を抜かしてゆく、そのとき横顔をうかがうと、フードで顔を覆っているけれど、体形と体幹の(不)安定、肉の付き方などから男性で老人であることがわかるのである。
ジョギングしていると、なんとなく遊歩道はまっすぐ続いているように錯覚されるが、家に帰ってスマートフォンの地図で俯瞰してみると川は曲がりくねっている。緑の残った右岸が学校や寺のある高台になっており、平坦な左岸は後から開発された。淳が子どもの頃は、この川はまだブロックで護岸されておらず、街灯も遊歩道もなく、左岸には蔬菜畑が広がっていた。今でこそ地下貯水池ができて、水量はコンクリートの川床をちょろちょろ流れる程度だが、かつては台風や集中豪雨で何度か氾濫したものだった。溢れた濁水は橋を流し、畑を越えて住宅地にも押し寄せ、小学校のクラスメイトの家が床下浸水したことをよく覚えている。
走りながら、無心になり切ることもできずに、ことさら記憶を探ろうとするわけでもないのに、過去の断片が次々と浮かび上がってくる。地形の人工的な変化が、かえって記憶を刺激するらしい。そうだ、畑を潰して児童公園を造ったのだ、そのすぐ傍に美容院ができた。あの頃は、その奥に住居一体型の個人経営の商店もちらほらあったものだが、今ではすっかり寂れてしまった。
「ほら、公園と潰れた美容室の間を折れたところ」と耳元で妻の声がささやくようだった。「ゴミ屋敷にバケモノ夫婦が暮らしている……」
いつの間にか淳はいつものコースを離れて、住宅街にさまよい込んで、小ぎれいに化粧直しされたり、建て替えられたりした家々の間を縫って走った。そしてちょうどY字路の叉のところまで来て立ち停まる。ああ、ここだ、床下浸水した同級生の家、軽トラックでこの辺り一帯に配達していた酒米店で、山形家でもビールをケース買いしていた。とっくに店仕舞いした様子で、たしかに立派なゴミ屋敷になっている。誰がどう見てもゴミ屋敷以外の何物でもない。
店舗脇の駐車スペースには錆びて鳥の糞塗れの軽トラックが駐車してあったが、荷台はゴミの山、車内も溢れんばかりのゴミ、空き缶、空き瓶、ペットボトル、ぱんぱんに膨らんだ黒いゴミ袋の山。車の外にも積み上げられたタイヤ、敷布団に掛布団に毛布、ショルダーバッグ、ハンドバッグ、ランドセル、ブラウン管のテレビ、ラジオ、炊飯器、電子レンジ、冷蔵庫、扇風機、本棚、本、雑誌、新聞紙、段ボール箱、山積みとなった黄色いビールケースとプラスチックのゴミ採集ケース、ボロ服の山、カーペット、ラグ、穴の開いた靴、底の抜けた靴、無数の傘の骨、ガラスの破片、取っ手のとれた鍋、フライパン、割れた皿やグラス、罅の入ったコップ、茶碗、脚の折れた卓袱台、椅子、詰め物のはみ出したソファー……これらを覆うブルーシートがあちこち裂け、破れ、中身が溢れ出し、敷地を越えて歩道まで浸食している。外がこれだと中はどうなっているのか。腐敗と下水と、さらに汗と尿の入り混じったようなこの臭い、大変な近所迷惑だ。
今こそ洪水が一切を洗い流してくれたなら、さぞや爽快であることだろう。
一体何があったというのか、淳は息を呑んで、しばらく立ち尽くしていた。記憶の中で元気に店を切り盛りしていた愛想の良い(客商売だからだろうが、少なくともそう見えた)夫婦(バケモノ夫婦? 元AV女優? 何かの間違いだろう)は、二世帯住宅の一階に暮らすリタイアした自分の両親と同世代だった。息子は、かつての同級生は今、どこで何をしているのか、この状態を知っているのか。
日差しにすっかり色褪せた看板の上の窓に明かりがないのは、電気そのものが来ていないせいなのかもしれない。電気どころか、水も止められているのではないか。児童公園の公衆便所でポリバケツに水を汲んでいた男の髭面が蘇る。空想の中で髭をきれいに剃り上げ、髪を洗ってハサミを入れる。家がなくて公園で寝泊まりしているのなら、わざわざ水を溜める必要なんてないはずだ、そうだどこかで見た顔だと思ったら、同級生だ、酒屋の一人息子、小学生のときに家が床下浸水の被害にあって、寄る辺ない様子でいた、看板の文字「村木酒米店」がまだなんとか辛うじて読めるように、かすかに記憶に残っている。
村木酒米店の一人息子、名前はなんと言ったか。高校を卒業後、進学も就職もせず、実家の手伝いをして、淳の家にも米やビールの配達に来た。愛想はなかった。人のことは言えないが、勉強も運動もできない目立たない奴で、今思うと、それが、人の目に立たないということこそが彼なりの生存戦略なのかもしれなかった。とにかく目立たないように生きているようだったのに、今ではその住まいはこれ以上ないほど耳目を集めているのだった、それも最悪の形で。
(続く)