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走る男  6/7話

 あの頭のおかしくなってしまった村木から、なんとか伊達を救い出す手立てはないものだろうか、平凡なサラリーマンの山形淳が始終そんなことをニッチ想いを巡らせていられるはずもなかった。彼には責任があった。社会人であり、何より先ず父親であった。そして、夜更けにはランナーになった。

 週日の朝には市の中心部にあるオフィスへ自家用車で通勤し、丸一日端末に向かってもくもくと入力作業を続けた。休日には胡座をかいて娘を太ももの間に座らせて絵本や童話を朗読してやった。それらの本は他ならぬ淳自身が子どもの頃に親しんだもので、ずっとこの家の屋根裏に片付けられていたのだった。子は退屈する様子もなく、父がふと物思いに捉われたりすると、首をひねって見上げ、一言も発することなく続きを促すのである。

 ほんの一瞬でも、この子が魔法をかけられたように消えていなくなることを願ったとしたら、そんな自分を許すことができるだろうか。

 みどりは物語を理解している、と淳は直感していた。それどころか、じっくりと味わっているはずだ。巨大なトロルや火を吹くドラゴンや邪悪な魔女が出てくる西洋のお話を声に出して読みながら、ずっと記憶の底に仕舞われていた子ども時代の驚異が蘇る。そうして深夜になり走りだせば、風を感じる。規則正しい呼吸音と心臓の鼓動。太腿とふくらはぎに乳酸がたまり、筋肉の張りを感じる。街灯の明かりを頼りに川沿いを走るうちに、光の届かないあちこちの暗がりに、父が娘に読み聞かせた絵本に出てくるような暗く危険な森や怪物の潜む谷が広がっているように思われてくるのだった。谷を渡り、丘を越えて森の奥深くに魔女の暮らす屋敷がある。

 走りすぎる電信柱の影に娘がぼんやり立っていたような気がする。あの子は子ども部屋で眠っているから、それは幻覚に決まっているのに、引き返して確かめたい衝動に駆られる。後ろ髪を引かれる想いで走り続けると、また先の電信柱の足元に娘が現れる。口を開けて何事か話そうとしている。走りすぎる。また現れる。言葉にならぬ叫び声を上げている。しかし、その声は聞こえない。彼女が指差している、その先には空虚があった。

 こんなはずではなかった。では、どんなはずだったと言うのか、それを示してみせろ。

「こんなはずではなかった」耳元ではっきりと悠子が囁いた。

 走りながらじっとりと汗ばんでいるのに、肌が粟立ち背筋を冷たいものが駆け抜けていった。

 そうしてある夜、村木酒店の廃屋の前まで来ている自分を見出して、山形淳は愕然とする。

 意を決してゴミの山をかき分けるように彼は進む。このままでは、取り返しのない事態になるかもしれなかったから。何十年もシャッターが降りたままの店舗の横、隣家の庭を隔てる万年塀に沿って細長いアプローチがあって、ところどころ青い養生シートに覆われた何かの廃材で塞がれているのを乗り越えていった。足元でその何かが崩れ落ちて倒れ込むと、深夜の静まり返った住宅街に耳障りな金属音が鳴り響く。泥棒とまちがえられて通報されるかもしなかったが、構わなかった。この廃屋、ゴミ屋敷には盗むに値するものなどなに一つもない。いや、何を言っている、大切な宝が隠されているはずだ。

 玄関はしっかり施錠されており裏に回ると、庭とは言えない狭いスペースもゴミで溢れていた。掃き出し窓も雨戸で鎖されていて、明かりも漏れず、人の気配がしない。二階のベランダを見上げると、裏の家から漏れる橙色の僅かな光から、そこも積み上がった段ボールと太古の黒ビニールのゴミ袋で埋もれていることがわかった。しかし、しだいに目が慣れてくると、そのゴミ山の中に人が立っているのが、騙し絵のように浮かび上がるのである。人影が手すりを摑んでこちらをじっと見下ろしている。「伊達……ユリちゃん?」小声で呼びかけるが、反応はない。たぶん正気を無くしているんだろう。アームバンドからスマートフォンを外して懐中電灯機能で人影を照らし出す。一瞬目が合ったが、逸らしたのは淳のほうだった。彼女の風貌は完全に荒廃していた。

「こんなはずではなかった……」

 伊達百合子はクラスの中でも派手目な子らとつるんでいたものだった。注意されない程度にうっすらと化粧している時もあった。昼休みに弁当を食べ終えると、コンパクトで飽きもせず自分の顔をつらつらと飽きもせずに眺めるのである。うっとりとしているようだった。窓辺で友達とくだらないことを喋りながら、そんな彼女のことをちらちら盗み見していると、風が吹いてカーテンが翻り日光が教室に射し込んで、彼女の掌のなかの小さな鏡に反射する。その強烈な照り返しに目を眩まされて手をかざす。そしておそるおそる手を下ろし、もう一度そちらを見てみると、彼女もまた彼の方を凝視しているのだった。この時も視線を逸らせたのは淳だった。

(続く)

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