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想い出を紐解いてみると・・#️⃣エッセイ

1 幼少期の衝撃

 自分の記憶を出来るだけ遡ってみる。いつのことかははっきりしないけど・・という想い出がいくつか自分という轍のなかにいくつも転がっているんだけれど。

 なるべく古いもの。
 住んでいた家の記憶を手繰ると場面がいくつか浮かんでくる。

 少し大きめの長靴を足をふって脱ぎ散らかしたまま階段を駆け上がるボク。「チエちゃん!」と精一杯の声を出すが早いか、ミシンを踏むチエちゃんに抱きつくボク。
 チエちゃんは隣の大人のお姉さんだから自分の家ではないけれど、チエちゃんの家の半間ほどの玄関、すぐ右にあった急な階段ははっきり映像として覚えている。
 他にもチエちゃんのお姉さんもいたような記憶はあるけれど、スポットライトが当たったかのようにチエちゃんしか見えてなかったボク。   それは2歳の頃のはず。ボクはそこで生まれたともう少し大きくなった頃、母から聞いた。

 その家は駅前の問屋街の一角にあった。まだ馬が荷車を引いていた。「えーっ、何時代?」と思われるかもしれないが、昭和31年頃。まだ車も少なく道は土。舗装などされていない。馬が歩けば馬糞は残る。轍の跡ででこぼこだらけ。そんな時代だったなあ。車もオート三輪などが走っていた。仕事用のゴツい自転車も活躍してた。
 駅前に問屋町は固まってあり、その周りにいろんなお店があった。もちろん店舗を構えてないお店も。

 ほぼ毎日十字路の角にアルコールランプ状のものとオタマ(そう、汁をよそうのに使う道具、アルマイト製)。おじさんに注文すると砂糖と粉を入れ火にかける。じっと見つめるボク。程なく丸い底から泡が立ち少しずつ膨らんでくる。やや楕円に近い丸くなったものこそ、甘い甘い美味しいカルメ焼き。
 ボクにとっては最高に美味しい毎日食べたいお菓子だった。サクッと噛むとボロボロと崩れるから、こぼさないように大事に食べた。もちろんその後手も舐めて。多分、5円もしなかったように思う。

 駅前で人通りも多いので少なくなったとはいえ傷痍軍人さんもアキカンを置いていろんな所に座っておられた。「何してるの?」と言葉に発したかは記憶にないが、興味を持って眺めていたと思われる。

 母によると、1番人懐っこい時代だったらしく記憶にはないが焼き芋売りのリヤカーの後ろに黙って乗り込み、かなり遠くまでついて行ってしまい、警察に連れ帰ってもらったこともあったらしい。これは残念ながら覚えていないのだか。

 次の家は駅前から少し離れた一軒家。家の前は稲荷神社だからはっきり記憶に残っている。
ただ、一軒家とはいえ3家族がこの部屋とこの部屋、というように部屋を割り振って借りていた。台所は共用。手で取手を上下して汲む井戸があり、焼いたりする調理用には各々が自分家の七輪を使っていた。
 食べる時は自分たちの部屋でみかん箱やりんご箱(木箱)に紙を貼ってひっくり返して食卓にしていた。

 3歳で弟が生まれて、弟と木箱に入って遊んだ記憶があるのは写真が残っているからだろう。
 ただ、この家のことをありありと覚えているのは二つの衝撃があったから。

 4歳になると近所のお兄ちゃんお姉ちゃんが一緒に遊んでくれるようになった。神社の横の空き地には電柱用のコンクリート製の長い棒や、地中に埋めて繋いで上下水道にでもしようというコンクリート製の土管が整然と積まれていた。

 当然運び入れたり出したりするため、積まれた土管と積まれた土管の間には人や運搬道具が通る隙間が作られていた。土管に入ったり土管に登ったりして遊んだ後、お兄さんお姉さんたちは「あっちのハジまで行こう!」と土管の上を隙間を飛び越してどんどん行ってしまった。

 どうしよう、ボクも行きたい、行かなきゃ、飛べるかな、困ったな、あぁお兄ちゃんたちの声が遠くなる、・・・「エイッ!」

 わずかな時間を経て、泣き出したボク。痛みは感じてなかった。頭からヌルヌルするものが垂れてくる。手は真っ赤。ただ泣きじゃくっていた。家はそんなに離れていないけれと動けなかった。

 ふと隙間の入り口に顔を出したおじさん。すっ飛んできて抱き上げ家に連れて行ってくれた。なんと、そのおじさんは大家さんだった。家族を知ってる人、幸運だった。
 ありったけの手拭いやおびのようなもので頭を巻いて、母はゴツい自転車の後ろに僕を乗せ、「お母ちゃんをしっかりつかむんや。絶対離したらあかんよ」そう言うが早いか猛スピードで自転車を漕いだ。
 暫くして大通りにある病院に着いた。お医者さんか看護師さんか何か言うたび、素直に返事はしたが全く覚えがない。記憶が消えている。

 処置が済み支払いを待つ母が言った。「カンちゃん、えらかったね、よく我慢したね。麻酔せずに10針も縫ったのによく泣かなかったね。すごいね。」
 母はこの時初めて涙を流した。ボクもさっきとは違う涙がでた。
 帰り道も母の身体をギュッとつかんで自転車で帰った。母の温もりが自分に伝わって「嬉しい」と感じていた。

 5歳になると父は出張が増えた。いつもお土産を買ってきてくれるのがうれしくて、留守番をするのは嬉しかった。
 その日も父の「家のこと頼んだぞ」の言葉に気合いが入っていた。
 たまたま母の妹が盲腸を患い、田舎から大病院で手術を受けるため、家に祖母と共に来ていた。手術は成功して自宅療養となった日は、父が出張から帰る日だった。

 しかしその日に伊勢湾台風が直撃した。当然父は帰れない。土間に水が入ってくる。母とボクと祖母で畳を積み上げ弟をその上にのせた。1番はじの部屋で療養する叔母の部屋に行き、みんなで畳を積み上げ、何とかそこに寝てもらった。

 祖母に弟と叔母2人を任せ、母はボクを連れて外に出た。雨戸に横木を当てしっかり押さえるように言われ必死で長い棒を押さえた。母が釘を打つたびズレるので、力をこめた。玄関も中から横木を打ち付けた。水は床上まで来たが積み上げた畳の上は大丈夫だった。

 寝たのか寝なかったのかは覚えていないけれど、雨風がおさまって母と外に出て打ち付けた横木を外す時、見上げた空の青さに驚いた。あんなに酷い雨風だったのに、何もなかったかのような美しい青空。
「よう頑張ったね。もう大丈夫。父さんもじきに帰ってくるよ」そう言われてるように思えた。

5歳くらいのことは鮮明に覚えていることが多いんだとわかった。もっと想い出を紐解けばエピソードがでてくるのかも。楽しみだ。


#創作大賞2024

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