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マグさんと見た!

北野武

初めて見たんですよ北野武の映画を。もうすごいよ〜わかるよ〜。

首が胴体からポンポン飛んでくることに事実としてのグロテスクさはあるけど画面としては「何も起こってないけど?」みたいなふりを続けることでその時代の厳しさみたいなのをずっと描いていて、どの作品より戦国時代に転生したり生まれたりしたくなくなった。知識があっても無双はできませんあんなの。変な話なんだけど色んな要素が派手にフィクションであることを示してるのに生活感というか空気としてリアルであることをずっと訴え続けて、戦国大名がかなり「その辺で仕事してる人」として描かれてた。首を切り落とすやつとあったことないけど時代が時代なら荒木村重みたいなことをするしかないやつみたいなのはわかる。

首が切り落とされた胴体からカニが出てくる場面に出会ったこととか天下人がコロコロ変わる時代に生まれた訳ではないし、この映画に歴史的なリアリティが満載かと言われればぜっったいに違うと言い切れるんだけど、人間の話として人物それぞれの説得力とどれだけ暴力的でとっぴであっても実在しうると言いくるめられる違和感のなさとその影響力に関して面白すぎて歴史物にまつわる「そんなのある訳ないだろ」を封殺していた。だってこんなに面白くて魅力的なんだから歴史的にどうとか関係なくない?ってなる。あとそれぞれが違う生き方をしているのに世界観?みたいなものが同じだからこの世界で織田信長がこうなら豊臣秀吉はこうだし徳川家康はこうだよね。みたいな地続きの感じがあった。そんな訳ないのに見てる時には納得していた。

つまりこう、これが見たかったなんて見るまで一切思わない程度には初めてみる映像で、そうとは知らずにうまく騙してくれていて、見終わった後にこの映画を楽しく見れたことへの満足感がすごかった。見てる時点ですごく面白い作品を見ている実感があるのに一切合切見たことのない映像をぶつけられたのでしばらく多幸感でふわふわしていた。ジャンルがまっったく違うけどエブエブとかを見た後とかこう言う感じだった気がする。みたあと気持ちよくさせてくれるわけではないけどこれが欲しかったって思わせる作品だった。

遠藤憲一と西島秀俊…ならあるか

荒木村重と明智光秀の乳繰り合うシーンってみんなどの気持ちだったんだろう。北野武って男性ファンというか男社会!みたいな方で人気がある気がしているしその上でああいう「男として惹かれて憧れて…」ではなく、恋慕!愛憎!みたいな関係ってどうなんですかね。わたしはBLドラマと銘打たれて始まる作品とかは見るけど「そういうのがあります!」みたいな説明なしに始まるのはほぼないのでびっくりしました。

首が男性だけに用意された作品だとは言わない(ファイトクラブとかは男性に用意された作品だと思います)けど、男性が葛藤を抱えている原因が主君への愛憎に近い思いだったり昔の男へのあからさまな未練だったり、苦しむ原因が主君と従者のセックス(見たくないとかではない)であるのを「やっていいんだ…」と言う驚きはずっとあった。この時代を描くにあたって無限にある大義名分を謳わずに「お前を殺してやりたい」とか「あいつとの思いを無視できない」みたいなともすれば小さなことに煩わされて最後まで振り切れなかった明智光秀という男から逃げなかったところに時代を感じた。時代を感じたって何も言ってないのと同じかもしれないな、そういうのやっていい環境が今の時代にあるんだって感動したい気持ちと北野武じゃなきゃ怒られてお蔵入りでしたね明智光秀周りは全て…!という気持ちです。

あと西島秀俊と遠藤憲一はこういう演技を他の作品でもやってるよね。っていうのもあった。もちろん他の俳優さんもやってると思うしわたしがあんまり日本のドラマも映画も見ないのでわかんないところあるんだけど、この2人がそういう役やってることに違和感はないし、あの面々の中でこの2人がそういう役やってるんだな〜という納得はある。

この作品でそういう関係が露骨だったのは信長蘭丸と明智荒木だった訳だけど、最後まで強者として格が落ちなかった羽柴と徳川はそういう気配が一切なかったのでそういうことかなとも思う。いやなんか徳川家康のことずっと慈愛の目でみてた服部半蔵のことはよくわかんないですけど…。

天下人

それはそれとして、それはそれとしてですよ。それはそれとして明智光秀はめちゃくちゃエロかったですね…。この映画で誰をどう思うかは好みが分かれますが明智光秀って本当にエロかったです。

序盤は狂人であり暴君である織田信長の刀まんじゅうフェラディープキスとかに紛れて常人のような気がしていたけど、全然違う人に「蘭丸!!」って言いながら切りつけたりとか荒木村重に信長のマント着せて殺そうとしたところに狂気を感じて最高だった。いやまぁ、あの時代において穏やかな好好爺なままでいれる徳川家康とどっちが狂人かと聞かれると迷うところではありますけどね。

終始、愛憎や恋慕に振り回された明智光秀を狂人と言い切るのは簡単だけど、あの時代において愛憎や恋慕だけで走り抜けたところは頭がおかしいとは思います。明らかに他の人たちと見てるところ違うのに同じ土俵で同じ勝負してたからね。なんなんだあいつ…というには十分な男だった。最後に「首なんてどうでも〜」と言われてたのも羽柴秀吉にとって最後まで計算できない(感情で動く)存在だったってことだと思う。

そう思うと何人もの影武者を用意してた徳川家康はあれだけ優しい顔しておいて怯えながら5人くらい見殺しにしてたわけだし酷い人だしそこに心は痛めてなかったから天下人の器なんだと思う。明智光秀はそういうことできない。羽柴秀吉も影武者を用意してなかったけど、あれは人情とかではなくセルフプロデュースの一貫なので「できないではない」ではなく「してない」なので…。

人々

もちろん有名どころへの新解釈もすごかったけど、歴史に名を残してないからってなんでもしていいとは言ってないぞ!みたいなところはあった。無限にかっこいい忍者とか明らかにボイスチェンジャーを使ってる巫女とか中村獅童の村人とか…。

中村獅童の村人本当にすごかった。中村獅童の圧とか格を全部削ぎ落とした状態で登場してほとんどは品も格もないけどなんか運のいいやつとして生きてるのに最後の最後に明智光秀と対峙した瞬間の表情にだけは重さがあった。あとはなんか運で生きてた。

躊躇いなく友人を殺す戦場への才能をみせながら、殺した友人の影をずっと怯えてるバランスが彼を人間にしてたと思う。多分ああいう人ってあの時代における「一般人」なのかも。ちょっと体が強いくらいの特徴があるだけで彼は普通な人としてあの時代のあの日々を駆け抜けたのかもしれない。もちろん村人としては異常なんだけど作中彼を観測するのは天下人なので、天下人からしたら普通のメンタルとして映ると思う。そんなわけないだろ。

あの時代において何も持たない人間が「生き残ること」はかなり運が絡むことで、つまり死ぬことはどうしようもない理不尽であって何か対策できることではない。っていうのを彼は体現してたと思う。影武者を用意できる家康や万事に対してなんらかの手を加えられる羽柴秀吉とか圧倒的な力で席を守ってた織田信長に比べて茂助が生きてたのは「100人でジャンケンのトーナメントしたら1人は全勝のやつがいるよね」くらいの意味でしかなかった。偶然で必然だけど運命や奇跡ではない。再現性はない。そこに意味も特にない。誰でもいい。

そういう無情さがこの映画特有の空気だったし、だから最後の「首なんて〜」が妙に爽やかに映るところでもあると思う。あのままポカリのCMに入っても良かったよあれ。

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