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「狂」(二)~魏晋


魏晋の「狂」

「狂」には、「狂狷きょうけん」と「佯狂ようきょう」の二つの異なる系譜がある。 

「狂狷」は、孔子が『論語』の中で「進取の気」として肯定的評価を与え、孟子が継承し、以後、連綿として明の王陽明おうようめいにまで受け継がれていく。

「佯狂」は、狂気を装って世を避けた箕子きし接輿せつよに始まる。乱世における「明哲保身」の処世術として、知識人たちが古来拠り所としてきた。

魏晋の文人に見られる数々の奇行や狂態は、こうした「狂」の思想を実践したものである。南朝宋の劉義慶りゅうぎけいが編纂した逸話集『世説新語せせつしんご』を紐解くことで、当時の思潮を窺い知ることができる。

魏晋において名士としての評判を得るのは、必ずしも聖人君子のように品行方正に振る舞うことではなかった。むしろ型破りで痛快な言動やウィットに富む粋な発言がもてはやされ、文人たちは個性的で風変わりな生き方を競っていた。そうした生き方の一つが「狂」であった。

カモフラージュとしての「狂」

魏晋の時代思潮を代表するのが「竹林の七賢」であり、中でも傑出した存在が阮籍げんせきである。阮籍の逸話には、反礼教的な韜晦の処世態度を伝えるものが多い。

『世説新語』「簡傲」篇には、次のような逸話がある。

晋の文王、功徳こうとく盛大にして、坐席は厳敬げんけい、王者にす。だ阮籍のみ坐に在りて、箕踞ききょ嘯歌しょうかし、酣放かんぽう自若じじゃくたり。

阮籍は、晋の文王(司馬昭しばしょう)の宴席で、ただ一人平然とあぐらをかいて酔っぱらっていたという。

また、『晋書』「阮籍伝」には、「司馬氏との縁談を嫌い、60日間酔い続けて話をそらした」とか、「当て所なく車馬を走らせ、行き止まりになると慟哭して戻った」とか、礼法を無視した振る舞いや常軌を逸した奇怪な言動を物語る逸話が記されている。

こうした奇行や狂態は一種の自己防衛であり、狂気を装うことで自らを無用者に見せかけ、政治の風波を避けようとしたものである。魏晋の際の険難で陰惨な時代を生き抜くための処世術であり、自らの身を守るための隠れ蓑、すなわちカモフラージュであった。

そうした例を『世説新語』の中から、さらにいくつか拾ってみよう。

「方正」篇に、次のような話がある。

孔群こうぐん匡術きょうじゅつに暴言を吐いた。匡術が怒って斬りかかると、孔愉こうゆが「いとこは気が狂ったのだ。許してやってくれ」と弁明し、孔群は命拾いをした。 

本来なら許されない無礼を「狂」だから見逃してくれということである。「狂」は、危難を逃れるための免罪符として働いていることになる。

「黜免」篇にもこれと似た話がある。

諸葛宏しょかつこうが讒言を受けて遠方へ流されることになった。罪名が「狂逆」であることを知った諸葛宏は、「逆と言うなら死罪も当然だが、狂と言うなら流される筋合いはない」と反駁した。

「逆」は君主に背く反逆であり法によって裁かれる大罪である。しかし、「狂」は罪にはならず、むしろ「狂」であることによって情状酌量される。

元来「狂」は疾病の一種であり、これを患う者は通常の人間社会の枠から弾き出されるわけであるが、正にそれゆえに、普通の人間に適用される倫理的準則や法的罰則が適用されなくなるのである。

カモフラージュとしての狂態の中で、最も一般的かつ簡便な方法は「泥酔」である。北宋・葉夢得ようぼうとく石林詩話せきりんしわ』の中に、晋代の人々の飲酒について語った一節がある。

晋人多く飲酒のことを言い、沈酔ちんすいに至る者有るも、其の意未だ必ずしも真に酒に在らず。蓋し時まさ艱難かんなんにして、人各々禍をおそれ、だ酔いに託して、以て世故より疏遠すべからんのみ。飲む者は未だ必ずしもはげしくは飲まず、たけなわの者は未だ必ずしも真には酔わず。

酒を飲んで泥酔する目的は必ずしも酒自体にあるわけではない。艱難の時代に生きた人々は、禍が及ぶのを恐れ、酔態にかこつけて世事から遠ざかろうとしたのだと語っている。

パフォーマンスとしての「狂」

魏晋の文人たちの「狂」は、基本的には、保身を意図した処世術であった。しかしながら、消極的な逃避や自己防衛ではなく、積極的な自己主張の表れと解釈した方がよい場合がある。

儒家の道徳的規律や儀礼に反する奇行や狂態は、儒家と対峙する道家の自由な生き方を実践しようとするものとして捉えることができる。

老荘思想が盛んであった当時、奇行や狂態そのものが世俗を超脱した高雅な文人精神を寄託する行動様式としてもてはやされる風潮があった。そうした風潮の中においては、「狂」は誹謗などではなく、むしろ敬慕の念を含んだ賛辞であり、文人たちも自ら「狂」の人たらんとした。

再び、『世説新語』の中から、まず阮籍の例を見てみよう。「任誕」篇に、次のような逸話がある。

阮歩兵、母をうしない、裴令公はいれいこう往きて之をちょうす。阮まさに酔い、髪を散じてしょうに坐し、箕踞ききょして哭せず。

母親の葬儀中、哭礼もせずに泥酔して髪を振り乱し、足を投げ出して坐ったまま弔問客に応対したという。

この逸話は、『荘子』「至楽」篇に見える荘子の持論が背景にある。荘子は、妻を亡くした際、盆を鼓して歌い、その理由を次のように語っている。

もと生無し。ただに生無きのみに非ず、本形無し。徒に形無きのみに非ず、本気無し。芒芴ぼうこつの間にまじわり、変じて気有り、気変じて形有り、形変じて生有り、今又変じて死にく。是れ相ともに春秋冬夏四時のめぐりを為すなり。

阮籍の狂態は、荘子が説く生死を超越した「万物化生」の道理に従い、それを実践したものである。自己流の生き方を顕示するためのパフォーマンスである。

阮籍が忌み嫌ったのは、形骸化した礼教道徳の虚偽性である。とりわけ父母の葬儀は儒家の礼教道徳において極めて重要な儀礼であるゆえ、それをないがしろにする行為は、反礼教的な姿勢を示すには最も効果的な宣伝になるのである。

次に、「竹林の七賢」の中の一人、劉伶りゅうれいの例を見てみよう。

「任誕」篇にある逸話には、反礼教的な姿勢を誇示する演技が見て取れる。

劉伶つねに酒をほしいままにして放達ほうたつなり。或とき衣を脱ぎ裸形らけいにして屋中に在り。人見て之をそしる。伶曰く、「我天地を以て棟宇とううと為し、屋室を褌衣こんいと為す。諸君何為なんすれぞ我が褌中に入るや」と。

部屋で裸になっているのを譏った俗人に向かって、「なんで俺のフンドシに入ってきたのだ」と言い返したという痛快な話だが、これもパフォーマンスである。『晋書』「劉伶伝」に、

情を放ち志をほしいままにし、常に宇宙を細かとし、万物をひとしとするを以て心と為す。

とあるのを、そのまま演じたようなものである。

阮籍の場合と同じように、やはり老荘思想が根底にあり、「天地と我とは並び生じ、万物と我とはいつ為り」という荘子の「万物斉同」の思想を実践するパフォーマンスである。

ファッションとしての「狂」

魏晋の文人の狂態を考える上で、酒の他にもう一つ見過ごせないのが薬物である。当時、薬物を服用して気分を昂揚させることが、一種のファッション(風習、流行)であった。

『世説新語』「言語」篇に、次のようにある。

何平叔かへいしゅく云う、「五石散ごせきさんを服すれば、唯だ病を治すのみに非ず、亦神明開朗なるを覚ゆ」と。

ここで何晏かあんが、病が治るばかりでなく気分が晴れ晴れするとしている「五石散」とは、魏晋から唐代にかけて貴族の間で流行した一種の覚醒剤のような薬物である。

石鍾乳・石硫黄・白石英・紫石英・赤石脂の五種を調合した鉱物系の薬物であり、同じく鉱物を原料とした煉丹術で不老長生を求める神仙思想の盛行と相俟って、五石散は貴族の間で大いに流行した。

五石散は非常に高価で、一般庶民には手が届かなかったことから、五石散を服用することは、風流な貴族のステータスシンボルであった。

五石散は、病を癒やし体力を増強する効果がある反面、毒性が強く、副作用が激しい。服用後は発熱して身体中が熱く痒くなる。毒を身体から発散させるために歩き回らなければならない。また、空腹であってはならず、昼夜を問わず何度も食事をとらなくてはならない。

魏晋の文人たちが、しばしば裸で髪を振り乱したり、足を投げ出して座ったり、服喪中に暴飲暴食したりするというのも、実は、礼教道徳に対する反駁という思想的な要因を論ずる以前に、薬物の作用が引き起こす生理的な反応であるというごく単純な理由も考えられるのである。

魯迅は、「魏晋風度及文章与薬及酒之関係」という文章の中で、 

晋朝の人がみな根性曲りで、傲慢で狂気じみて、ひどく怒りっぽかったのは、おそらく薬物服用のせいだったのでしょう。

と語っている。

五石散の服用は、魏晋の文人の奇行や狂態と決して無関係ではなく、当時の「狂」を語る上で欠かせない論点の一つである。


以上、便宜上、カモフラージュの「狂」、パフォーマンスの「狂」、ファッションの「狂」に分けてみたが、実際には、逸話ごとにどれかに振り分けられるわけではない。多くの場合、一つの逸話の中に複数の「狂」の相が重なり合いながら、魏晋の特異な時代風潮を如実に伝えているのである。

*本記事は、過去に投稿した以下の記事を簡略にしたものである。


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