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M 先生を偲ぶ
M 先生は腰の低い人だった。
偉い先生なのだが、偉そうな風がまったくなく、飄々とした仙人のような方だった。
わたしが学部生の時、M 先生は外務省の招聘で香港に滞在されていた。
幸運なことに交換留学生として香港の大学に渡っていたわたしは、1年間、先生と親しく接する機会に恵まれた。
M 先生は香港島の高台に居を構えられていた。週末になるとしばしば、大学のある新界から列車(当時はまだ蒸気機関車)に乗り、フェリーと二階建てバスに乗り継いで先生のお宅にお邪魔した。
奥さまを交えて三人麻雀をすることもあった。三人麻雀ほど面白くない麻雀はないのであるが、先生が一番エキサイトして楽しんでおられた。
ある時、先生が口述原稿の録音をされているところにわたしが居合わせた。
レコーダーに向かって喋るのではリズムが取れないとのことで、
「君、そこに座って聴いていてくれ」
と頼まれた。
お話は現代中国の政治に関してだったように記憶しているが、内容についていけないわたしは、ただ座って「はあ」とか「へえ」とか間の抜けた相槌を打っていた。
M 先生の学部の授業はまるで講談だった。
満席の階段教室に手ぶらで入って行き、90分間滔滔と講釈師のような調子で講義をされていた。
一方、大学院の授業は、ほとんど授業になっていなかった。
演習の授業だったが、文献を読むのはほんの30分ほどで、あとは煙草を吹かしながらの雑談だった。
飄逸とした面白可笑しい語り口の裏に、中国に対する先生独自の鋭い洞察力が光っていた。
M 先生は謙虚な方で、誰に対してもいつも柔和な笑顔であった。
にもかかわらず、わたしにとって先生はどことなく怖い存在でもあった。
自分の研究者としての未熟さ、文学を解さない無粋さを先生には見透かされているような心地悪さがあったのかもしれない。
教職に就いて20年後、米国の大学へ訪問研究員として赴くことになった。
その年の冬、病床の先生をご自宅にお見舞いに伺った。
渡米を間近に控えていたわたしに先生が伝えておきたいことがあるらしい、と奥さまからあらかじめ聞かされていた。
いったい何を叱られるのだろうと内心ビクビクしていたのだが、お話の主旨は「本質」についてだった。
太平洋戦争で、如何に日本の軍部が戦争の本質について無知であったか、
中国研究において、如何に日本の学者が中国の本質を取り違えているか、
そして、学問は、対象の本質をつかむこと以外にその目的はあり得ない、
ということを語ってくださった。
何度も何度も「本質」という言葉を繰り返されていた。
わたしが米国の大学に移籍するものと勘違いをされていた先生は、新天地で物の本質に迫れる学者を目指すようわたしにエールを送ってくださるお考えであったようだ。
思い返せば、その時すでに最期の日を迎えつつあった先生は、息苦しそうにされながら長時間にわたって切々と語ってくださった。
わたしにとっては、かけがえのない「最終講義」であった。