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「痴」(一)~魏晋
「痴」
「痴」は「おろか」という意味である。頭の働きが足りないこと、鈍いことを言う。やまいだれであるからもともとは精神的な疾病に類する。
「痴」の用例は、『論語』『孟子』『老子』『荘子』『詩経』『楚辞』など先秦の思想・文学を代表する書物には皆無である。ところが、魏晋に至ると俄に多くの用例を見るようになる。
これは、魏晋の時代思潮と無関係ではない。「痴」は、この時代の精神文化の一斑を表す文字となり、辞書的な意味だけでは解釈しきれない含意を持つようになる。
魏晋の「痴人」群像
魏晋の時代には、「痴」と呼ばれた一群の名士たちがいる。彼らの逸話の中で使われている「痴」字の大半は、原義である「おろか」の意味で使われている。
一方、以下に挙げる逸話の中の「痴」には、原義を超えた精神文化的な含意が込められている。
顧愷之
東晋の画家顧愷之は、卓越した絵画や文章の才能に加えて、数々の奇行で知られる。「画絶」(超絶の画才)、「才絶」(超絶の文才)、「痴絶」(超絶の遅鈍)」の「三絶」を備えると言われた。
南朝宋の劉義慶が撰した逸話集『世説新語』の「文学」篇に、
愷之は博学にして才気有るも、人と為りは遅鈍にして自ら矜尚し、時の笑う所と為る。
とあり、遅鈍な上に驕り高ぶったさまが人々の失笑を買っていたことを伝えている。
顧愷之の奇行は、例えば『晋書』の伝に次のような逸話がある。
桓玄嘗て一柳葉を以て之を紿きて曰く、「此れ蝉の翳るる所の葉なり、取りて以て自ら蔽えば、人己を見ず」と。愷之喜び、葉を引きて自ら蔽うに、玄就きて焉に溺す。
顧愷之は桓玄に騙され、身を隠す魔法の柳葉のことを信じてしまう。それを戯れた桓玄に小便をかけられるという滑稽談である。
顧愷之の逸話には、このように騙されたりコケにされたりという類が多い。間の抜けた世間知らずの芸術家の姿を彷彿とさせる。
しかしながら、顧愷之は当時超一流の画家であり文章家である。人々が彼を「痴」と呼ぶ時、それは原義のままの「おろか」という意味ではない。芸術の世界に没頭しているがゆえに世故には疎い人物、俗気の無い、高尚で純真な人物として敬愛の念を以て「痴」と呼んでいる。
王湛
『世説新語』「賞誉」篇には、王済が「痴」と呼ばれていた叔父王湛の隠れた才能を武帝(司馬炎)に推奨するという故事がある。
武帝、済を見る毎に輒ち湛を以て之を調いて曰く、「卿が家の痴叔死するや未だしや」と。済常に以て答うる無し。既にして叔を得たる後、武帝又問うこと前の如し。済曰く、「臣が叔は痴ならず」と。其の実の美なるを称す。
王湛は一族の皆から痴れ者扱いされていた。甥の王済も初めは敬意を払っていなかったが、ある時、実は王湛が学問・技芸に卓越した人物であることを知る。武帝が常々王済をからかって、「痴れ者の叔父上はもう死んだかな」と言っていた。王湛の真価を知った王済が、「叔父は痴れ者ではございません」と言って、本当は立派な人物であると推奨した。
「痴」と呼ばれる人の多くは、一見愚かしく見えても実は痴れ者ではなく、周囲の者がその才能や人徳に気づかないだけであることを語っている。
羅友
大人物の素質のある人間は、しばしば痴れ者として世間の人々の目に映る。『世説新語』「任誕」篇に登場する羅友もそうした人間の一人である。
襄陽の羅友大韻有り、少き時多く之を痴なりと謂う。嘗て人の祠を伺いて食を乞わんと欲するに、往くこと太だ蚤く門未だ開かず。主人神を迎え出でて見、問うに時に非ずして何ぞ此に在るを得たるを以てす。答えて曰く、「卿の祠るを聞き、一頓の食を乞わんと欲するのみ」と。遂に門の側に隠れ、暁に至り食を得て便ち退き、了に怍ずる容無し。
羅友には「大韻」(大人物の風格)があったが、若い頃は人に「痴」と呼ばれていた。羅友は、物事に対して拘りが無い。祭祀の供え物をもらい受ける乞食のような真似をしてもまったく恥じる様子がない。そうした行為を恥とする認識がもとより欠如しているのである。
同じ条の下文に、羅友の人となりを表すもう一つの逸話がある。
広州刺史と為り、鎮に之くに当たり、刺史桓豁語げて莫に来宿せしめんとす。答えて曰く、「民已に前期有り。請う別日に命を奉ぜん」と。征西密かに人を遣わし之を察せしむ。夕べに至り、乃ち荊州門下書佐の家に往き、之に処りて怡然たること勝達に異ならず。
羅友は、人と交わる際に分け隔てをしない。地方長官から接待の誘いを受けたが、下級官吏の旧友との先約があったために誘いを断った。相手の地位や身分によって自分の節操を曲げることがない。と言うよりも、もとより地位や身分というものがまったく眼中にない。
この類の「痴」者は、価値観が根本的に俗人と異なり、世俗の物差しで振る舞うことがない。世間体に無頓着であったり社会の常識を逸脱したりするため、世の人々から痴れ者扱いされるのである。
魏晋の時代思潮と「痴」
『世説新語』などを見て明らかなように、古くは「おろか」「にぶい」という病理的な意味でのみ用いられていた「痴」字が、魏晋に至って、さまざまな精神文化的含意を以て当時の名士たちを語る言葉となった。
「痴」の字面は甚だ醜悪なものであるが、この時代において「痴」と呼ばれることは決して不名誉なことではなかった。逸話の中にしばしば「人は之を痴と謂う」という類のフレーズがあるが、ここでいう「人」とは俗人のことである。俗人から誹謗中傷されることは、反俗的な文人にとっては、むしろ望むところであった。
「痴」の反義語は「慧」である。「慧」は「かしこい」という意味であるが、「黠」(ずるがしこい)に繋がるマイナスの語気を伴うことも多い。「痴」は、正にそうした小賢しさや小利口さのない心態を言うものである。遅鈍であることは、純真で篤実な心態としてプラスに解釈されたのである。
「痴」はしばしば「狂」と並べて語られる。「狂」が動的で外向きの発散性を示すのに対して、「痴」は静的で内向きの凝固性を示す。両者は、運動性・方向性において対照的でありながらも、文人精神を担う概念として通底するものを共有している。
魏晋以後、明清に至るまで、「狂」と「痴」は、反俗的・超俗的な文人たちが好んで拠り所とする概念として、中国の精神文化史にその系譜を保ち続けているのである。
*本記事は、以下の記事を簡略に改編したものである。
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