中国人が語る中国人(一)~中華帝国の時空
80年代の初め、「龍的伝人」という歌が中華圏で大流行した。中国人が自らを龍の末裔と名乗るのは、誇り高き民族精神の表白にほかならない。
日本にとって中国は「同文同種」「一衣帯水」の隣国でありながら、民族性や精神風土の違いから両国民の思考様式が著しく異なり、戸惑いを覚えることも少なくない。
「中国人を理解する鍵」「中国人との付き合い方」などをテーマとする書籍が数多く出版されているが、そのほとんどが日本人(あるいは在日中国人や帰化した元中国人)の著者によって、日本人の読者を対象として刊行されたものである。
ここでは、中国人の著者が中国人の読者を対象として書いた「中国人論」を抜粋して取り上げ、原文(中国語)の要約に管見を添えて紹介したい。
中華帝国の時空~銭穆「中国文化伝統之演進」
銭穆(1895~1990)は、中国の著名な歴史学者である。北京大学、四川大学などで教鞭を執った後、新亜書院(のち香港中文大学に統合)を創設する。のち渡米して、エール大学などで講座を担当。その後、台湾に移住し、中国文化学院(現在の中国文化大学)の教授に就任。90年、台北にて死去。
歴史思想研究を通じて、中国人の民族的特性を明らかにし、中国の伝統文化を世界に表揚している。
「中国文化伝統之演進」は『国史新論』に収められた論文であり、1941年、重慶中央訓練団(国民党の政治教育組織)にて行われた講演を記録したものである。
「五千年」の歴史
中国人は、自国の歴史の長さを「五千年」或いは「四千年」と称している。殷王朝(紀元前1600年頃~紀元前1100年頃)の成立から数えれば、三千数百年という計算になる。
殷の前の夏王朝は、その存在がまだ考古学的に実証されていない。仮に存在したとすれば、紀元前2000年頃から紀元前1600年頃の成立とされているので、これを起点とすれば約四千年ということになる。
五千年という言い方は、さらに神話伝説の時代である三皇五帝の時代にまで遡ることになる。黄紀(黄帝紀元)では、西暦の紀元前2698年を元年とするので、これに従えばほぼ五千年になる。
歴史学的にどの数字が妥当であるかはさておき、中国の学校教育では神農や黄帝の登場する神話伝説を中国の「歴史」として扱っている。したがって、中国人がこの時代を含めて五千年と数えるのはごく自然のことなのである。
いずれにしても、五千年という言い方は、中国人が自国の文明の古さに自負を込めた誇称である。中国人が愛国を語る際、何よりも先に言及するのが、この「五千」という数字に象徴される悠久の歴史なのである。
中国とヨーロッパの「時間」
銭穆は、中国文化との比較の対象として、中国と同じように過去から現在に至るまで発展を継続している文化として、ヨーロッパ全体を一括りにして取り上げている。
ヨーロッパの歴史は、政治・文化の担い手が次々と交替し、主役が目まぐるしく入れ替わる芝居のようであるのに対し、中国の場合は、太古の時代から現在まで主役がつねに同じであり、こうした一貫性にヨーロッパとの根本的な違いがあるとしている。
世界の文明の中で、唯一中国のみが、単独で自らの文化を維持し続けてきた最も優れた文明であるという自負の念を言外に匂わせている。
中国とヨーロッパの「空間」
「ヨーロッパ文化」は欧州全土で同じ文化が展開されてきたわけではなく、局部的に文化の中心が発生し、やがて中心が別の場所へ移動する。そこに、文化の断絶が生じるのだと言う。
一方、中国の場合は、秦による天下統一以前から、東西南北を問わず「中国文化」という基本的に一つの文化が栄えたとしている。
こうした時間的な連続性、空間的な全面性は、中国人の論者が、中国文化のヨーロッパ文化に対する優越性を唱える際の論拠となっている。
この銭穆の文章は、軍事組織での講演録であるので、学術論文のような精密さを求めるわけにはいかないが、随所に事実と異なる点が指摘できる。
例えば、春秋時代の斉と楚は、同じ中国文化とは言え、一方は儒家系、一方は巫術系であり、精神風土に大きな違いがある。また元朝は蒙古族、清朝は満州族であり、同じ中国人による統治が続いたわけではない。漢民族の中国という意味では、断絶がなかったとは言えない。
しかしながら、銭穆のみならず多くの中国人論者が、中国の歴史に断絶があったとは認めていない。支配者層が一時的に他民族に取って代わられただけのことであり、中国という国家自体はつねに漢民族の国家であり続けたという歴史認識である。
中国人は自らの国を「老大帝国」と呼ぶ。「老」は人間で言えば長寿、国家で言えば悠久の時間である。「大」には物理的な大きさに加えて、偉大という含意がある。中国人は「老大」であることに絶対的な価値を置いている。
それは、中国人が自ら誇るところであるが、次第に「老」は「老獪」へ、「大」は「尊大」へと繋がっていくことにもなるのである。
中華思想
ここで語られている古代中国人の世界観は、いわゆる「中華思想」にほかならない。
中国人は自らの民族文化の中心を「中華」(あるいは「中夏」「中州」)と称し、その文化的薫陶が及ばない周辺の異民族を「東夷」「西戎」「北狄」「南蛮」と呼んで蔑んだ。夷・戎・狄・蛮という禽獣を意味する漢字が示すとおり、中国人は周辺の民族をそもそも人間扱いしていなかった。
中国こそが世界の中心、中国人のみが文明人であり、他のいかなる国家も民族もすべて未開で野蛮な存在であると見なす観念は、時代が進んでもつねに中国の統治者の絶対的信条であり続けた。中国の皇帝が唯一無二の支配者として全世界に君臨するという信条である。
中華思想は、中国人理解の根幹である。特に、中国人が国家として振る舞う際、とりわけ外交面の基本姿勢として現れる。中華帝国が強大であった時代はもとより、中国が世界の中の一国家となってからも、尊大な自己中心主義が潜在意識としてつねに働いているのである。
この講演はおよそ80年前のものであり、しかも五千年の中国文化を大雑把に語ったものである。したがって、21世紀の中国に当てはめて妥当性を論ずればむろん齟齬が生じる。
しかしながら、一国の国民性、一民族の民族性は、数百年、数千年の時を経ても、基本的体質はさほど変化するものではない。
グローバル化が進んだ現代においても、中国は依然として中国、中国人は依然として中国人という面が多いのである。銭穆が指摘した幾つかの論点は、少なからず現代中国の理解に資するものであろう。
*本記事は、以下の記事のダイジェスト版である。