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「狂」(三)~李白・杜甫


詩語としての「狂」

今回は、唐代を代表する二人の詩人、李白と杜甫の作品を例に挙げながら、詩語としての「狂」をテーマにしてみたい。

『詩経』以来、歴代の詩人における「狂」字の使用状況を通観すると、唐代の李白・杜甫に至って初めてまとまった数の使用例が現れることがわかる。

『詩経』では使用例はわずか6例、しかも「狂童」「狂夫」のように、女性が意中の男性を呼ぶ特殊な語彙に限られる。魏晋は、『世説新語せせつしんご』などに名士たちの狂態の逸話が数多く残されているが、詩の世界では、例えば曹植そうしょく阮籍げんせき嵆康けいこうらには使用例が皆無である。六朝から初唐にかけての詩人たちについても「狂」字の使用例はほとんど無い。

ところが、盛唐に至ると、李白が27例、杜甫が26例と俄に用例が多くなる。その使い方も、詩人の境遇や思想と密接に結びついたものとなり、「狂」字が初めて「詩語」と呼ぶにふさわしい質と量を備えるようになる。 

李白の「楚狂」

李白の「廬山謠寄廬侍御虚舟」(廬山ろざんうた盧侍御ろじぎょ虚舟きょしゅうに寄す)と題する詩は、上元元年(760)、李白60歳、流刑から恩赦に遭った後に廬山を過ぎった際、廬虚舟に寄せた長編の詩である。

最初の段落は、こう歌っている。

我本楚狂人    我はもと 楚の狂人
鳳歌笑孔丘    鳳歌ほうか 孔丘こうきゅうを笑う
手持綠玉杖    手に持す 緑玉杖りょくぎょくじょう
朝別黄鶴樓    あしたに別る 黄鶴楼こうかくろう
五嶽尋仙不辭遠  五岳に仙を尋ねて遠きを辞せず
一生好入名山游  一生 好んで名山に入りて游ぶ

「鳳歌を歌い孔子を嘲笑った男、かの楚の狂人なり」と名乗り、俗世と決別して山に入ったことを歌う。

そして、最終段では、次のように結んでいる。

早服還丹無世情  早く還丹かんたんを服して世情無く
琴心三疊道初成  琴心きんしん 三畳 道 初めて成る
遙見仙人綵雲裏  遥かに仙人を見る 綵雲さいうんうち
手把芙蓉朝玉京  手に芙蓉ふようりて 玉京ぎょくけいちょう
先期汗漫九垓上  ず期す 汗漫かんまん 九垓きゅうがいの上
願接盧敖遊太清  願わくは盧敖ろごうむかえて太清たいせいに遊ばん

還丹の仙薬を服して世情を忘れ、心身を修練して仙道を成就し、神仙の棲む天上界に遨遊せんとする願望を歌っている。

冒頭の「楚狂」の句は、『論語』「微子」篇に見える逸話に基づく。

楚の狂接輿せつよ、歌いて孔子をぎりて曰く、「ほうよ鳳よ、何ぞ徳の衰えたる。往く者は諫むべからず、来る者は猶お追うべし。まんか已まんか。今のまつりごとに従う者はあやうし」と。

接輿は、春秋時代の楚国の人、狂人を装って乱世を避けている隠者である。
李白は、傲岸不遜な性癖がわざわいして、官界で自分が望むような活躍ができないままでいた。「楚狂」と名乗っているのは、俗世から隔たった位置に超然として自らを置こうとする願望の表れである。

世に容れられない時、詩人は往々にして自らを「狂」と呼ぶ。政治に参画できない憤懣を胸中に抱く時、詩人は「狂」を自任することによって鬱屈した思いを解き放ち、精神の平衡を保とうとするのである。

接輿の生き方は、儒家的にも道家的にも解釈が可能である。上に挙げた逸話とほぼ同じものが『荘子』「人間世」篇にも見える。

接輿は、儒家的に捉えれば、時の政治を醒めた目で観察し、これに鋭い批判を呈する賢者ということになる。一方、道家的に捉えれば、俗世を避けて、現実の世界から遠く離れて世を達観する超越者となる。

では、李白の「廬山謡」詩の場合はどうであろうか。上の分け方ではむろん後者であるが、ここで歌われている「楚狂」は、実は『論語』や『荘子』に登場した本来の姿のままの接輿ではなく、もう一つ別の顔、仙人としての顔を持っている。

「我本楚狂人、鳳歌笑孔丘」と歌い起こした李白は、最後に「先期汗漫九垓上、願接盧敖遊太清」と結び、飄渺たる仙境に遊ばんとする願望を語っている。つまり、李白が自分自身になぞらえた「楚狂」は、俗世を捨てた隠者であるばかりでなく、天界を飛翔する仙人でもあるのである。

「廬山謡」詩の他に、「江西送友人之羅浮」(江西にて友人の羅浮らふくを送る)と題する詩の中でも、李白は自らを「楚狂」と称している。

爾去之羅浮  なんじは去りて羅浮らふ
我還憩峨眉  我はかえりて峨眉がびいこ
中闊道萬里  中闊ちゅうかつ 道 万里
霞月遙相思  霞月かげつ 遥かに相思わん
如尋楚狂子  し楚の狂子を尋ぬれば
瓊樹有芳枝  瓊樹けいじゅ 芳枝ほうし有らん

「瓊樹」は、仙界を象徴する詩語である。「もし君が峨眉山にわたしを訪ねに来てくれたら、そこには瓊樹の花が咲いていることだろう」つまり、その頃には自分はもう仙道を成就して登仙しているだろうと歌っている。

李白が自任した「狂」は、俗世を嫌って避けるアウトサイダー、もしくは、俗世を超脱した世界に棲む仙人としての「楚狂」であり、時として道家的、また時として道教的な傾向の強いものであった。

杜甫の「狂夫」

杜甫には、詩題を「狂夫」とする七言律詩がある。上元元年(760)の夏、杜甫49歳、成都の浣花渓かんかけいに草堂を構えていた頃に歌われた詩である。

萬里橋西一草堂  万里 橋西 一草堂
百花潭水即滄浪  百花 潭水たんすい 即ち滄浪そうろう
風含翠篠娟娟淨  風は翠篠すいじょうを含んで 娟娟けんけんとしてきよ
雨裛紅蕖冉冉香  雨は紅蕖こうきょうるおして 冉冉ぜんぜんとして香る
厚祿故人書斷絶  厚禄こうろくの故人は 書 断絶し
恒飢稚子色凄凉  恒飢こうき稚子ちしは 色 凄凉せいりょう
欲塡溝壑惟疎放  溝壑こうがくてんせんと欲するも 疎放そほうなり
自笑狂夫老更狂  自ら笑う 狂夫 老いて更に狂なるを

首聯・頷聯では、浣花渓を滄浪の水になぞらえ、隠居にふさわしい風情ある地であることを歌う。一転して、頸聯・尾聯では、旧友からは見捨てられ、子供たちは腹を空かせて血色が悪く、家族揃って餓死するかもしれないという苦境を歌う。そして、それでも相変わらず放縦な自分を笑って「狂夫」と呼んでいる。

「狂夫」詩の中には、「狂」を歌う詩に付き物の酒が出てこない。羽目を外した狂態や常軌を逸した奇行を示す描写も一切ない。杜甫は、酔眼ではなく頗る醒めた目で自身を見つめているのである。

杜甫の思想傾向に鑑みれば、「狂夫」詩の「狂」字には、「進取の気」「堅い節操」を意味する「狂狷」の価値観が込められていると見てよい。

『論語』「子路」篇に、

中行ちゅうこうを得て之にくみせずんば、必ずや狂狷きょうけんか。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所有るなり。

とある。「狂者」は、人が躊躇することを進んで行う積極性・自主性があり、志を抱き善を求める情熱家である。一方、「狷者」は、やるべきではないことは決してやらないという自らの信念を守る頑固者である。

儒家的な使命感を抱きながら、晩年に至っても理想を果たすには程遠い境遇に置かれている己を見つめ、杜甫は自らを「狂夫」と笑う。

これは自嘲のように聞こえるが、必ずしもそうではない。「狂夫」詩の行間には、むしろ杜甫の自負心が見え隠れする。

官吏として不如意であったのは、「狂狷」的な生き方をしてきたからだ、世俗におもねる「郷原きょうげん」的な生き方をしなかったからだ、という自嘲を自負にすり替える心理が働いている。それはまた同時に自慰でもあるだろう。

最後の一句「自笑狂夫老更狂」には、不遇のまま晩年を迎えた杜甫の屈折した複雑な思いが込められているのである。

杜甫が歌う李白の「狂」

天宝三載(744)の夏、杜甫は洛陽で初めて李白と出会う。李白44歳、杜甫33歳であった。杜甫が李白に贈った詩、あるいは李白を思慕して歌った詩が数多く残されており、その中に「狂」字を用いたものがある。

上元二年(761)、成都の草堂で「不見」と題する詩を詠んでいる。

不見李生久  李生を見ざること久し
佯狂眞可哀  佯狂ようきょう 真に哀れむべし
世人皆欲殺  世人 皆殺さんと欲するも
吾意獨憐才  吾が意 独り才を憐れむ

「佯狂」は、狂人のふりをすることである。中国古来の処世術であり、懐才不遇の知識人が乱世や苦境に身を置いた際に、そうした状況から逃れるための明哲保身の方策である。

杜甫は、朝廷から放逐された上に反逆罪に問われた境遇の中で痛飲狂歌する李白を「佯狂」と呼んで憐れんでいる。

「佯狂」は、道家的な傾向の強いものであるが、儒家思想においても是認されている。しかしながら、杜甫自身は、終生「佯狂」的、すなわち「楚狂」的な生き方を自らの処世態度として潔しとしなかったようである。

まさに「楚狂」そのものの生き方をした李白に対して杜甫が強い思慕と敬愛の念を示したのは、杜甫自身にはそうした生き方ができなかったからに他ならない。

こうして李白と杜甫の「狂」を比べ、あえてごく大雑把にまとめるならば、「楚狂」に代表される李白の「狂」は「佯狂」の系譜上にある道家的なものであり、一方、「狂夫」に代表される杜甫の「狂」は「狂狷」の系譜上にある儒家的なものと言ってよいだろう。

ロマンチシズムの詩仙李白と、リアリズムの詩聖杜甫、人柄も詩風もことごとく対照的な二人であるが、「狂」を通して比較してみてもまた見事に対照的である。


*本記事は、過去に投稿した以下の記事を簡略にしたものである。


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