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高校野球と創価学会は少し似ている

今年の優勝は慶応高校

今年2023年夏の甲子園は神奈川代表「慶応高校」による107年ぶりの優勝によって幕を閉じた。

同校の球児と言えば従来の坊主頭ではないのが印象的で「令和の球児らしくて良い」とか「高校球児らしからぬ、けしからん」といった高校球児たる者丸坊主であるべきか否かの論争もちょっとした話題になったのは記憶に新しい。(ちなみに私はどっちでも良い派)

そして、栄えある優勝に導いた立役者が慶応幼稚舎(小学校)教諭の森林監督。著作の「Thinking Baseball――慶應義塾高校が目指す“野球を通じて引き出す価値”」がAmazonで大変よく売れているらしい。

高校野球好きな私も慶応高校には準々決勝くらいから注目し、実は優勝に先んじて注文していたものの、Amazonにしては珍しく届くのに1週間ほどがかかった。

優勝以来大好評の森林監督の著作

「高校野球は変わらないといけない」との見出しに、私も「創価学会も変わらないとな」と何となく想いを重ねながら読み進めてみたところ、同書に綴られた高校野球の価値転換は野球に限らず、多くの分野に通じるものがあると感じた。

野球人口の減少、AI時代における高校野球が育むべき価値観とは―――
令和の時代に突入し、創立100周年を目の前に大きな転換点を迎えている創価学会も従来の形からの脱皮、パラダイムシフトが今まさに求められていることは活動家の誰しもが思うことではないだろうか。(ですよね…?)

同書を読んで学会活動に活かせることはないか、私なりに考察してみた。

許される範囲・考える習慣

読み進めると早速序盤に「坊主頭の文化」について触れられていました。

坊主頭を強制する文化の問題とも絡まりますが、高校野球は許される範囲が極端に狭いのが特徴だとも言えます。だからこそ、高校野球、部活動を通じて、高校生なりに自分で考える習慣を身に付けてもらいたいのです。

同書によると高校野球の旧態依然とした体質(文化)は未だに指導者都合のものも多く、甲子園への出場、勝利を第一義としている部分が大きいと言います。

確かに「甲子園」という夏の風物詩が【筋書きのないドラマ】的な扱い方をされて、多くの視聴者がそれを期待して球場に足を運び、またTVを視聴してる。(私もその一人かも…)

一方創価学会に目を向けても、似たような現象が見受けられるように思う。あくまで直感的に感じる傾向ではあるが、私よりも少し上の世代の方は

「創価学会の信仰、活動はこうあるべき」
「男子部はこうでないとな」

みたいなことを思う、あるいは言う人がやはり多いように思う。つまり許される範囲が狭い。高校野球と似ているのである。

それぞれに経験に基づいた美学のようなものがあることは、その人が語る学会の魅力でもあるので、何ら否定されるべきものではないと思うのですが、

社会全体を見渡して会社や自治体、あらゆる既存の組織が変革を余儀なくされるこの時代にあっては、組織の発展を妨げる要因の一つになりかねないことは認識されないといけない。

2000年代ぐらいまでは創価学会も活動者人口が多く、リーダーを育成していく為には多少なりとも所謂しごきに近いような厳しさが必要で、厳しい指導について来れない者はリーダーに非ず、という風潮があったのではと思う。

少なくとも私が高等部から学生部に移行した2009年時点ではまだその傾向はそれなりに残っていた。しかし、日本全体の人口が(学会青年部も)減少傾向に転じて久しい今日、本当に今必要なのは高校野球と重なる部分があるように思う。

私が創価学会が日本において、更なる発展を遂げていく為に必要なことはまさに高校野球とも共通する「考える力」であると思う。

  1. 三代会長の指導、日蓮大聖人の仏法は、時代に応じて今を生きる人たちが現代的解釈を加えていく不断の努力を続けなければならない(考える力)

  2. 「●●であるべき」論を排して、経歴・肩書に囚われないオープンな議論が出来る土壌を再構築していくことが必要(考える土壌)

もちろん「無事故の精神」は大前提として堅持した上での話でありますが、学会組織は非常に日本人的(保守的)で「リスク」に対して敏感なところがあり、一種の足枷のようになっている気がする。

「右に倣え」が良しとされる組織の中ではなかなかイノベーションが起こりにくいのもまた事実であると思う。創価学会はそんなことはない!という方も居るのですが、一部上手くいっている地域を除いてマクロの視点で見ると多くは当てはまるのかなと思う。(個人の感想です)

私は従来の価値観も尊重する姿勢と、方法論含めた新たな考え方を創り出す姿勢、両者のバランスを取ることが大事だと思っています。具体的には割合を5:5ではなく4:6あるいは3:7ぐらいで新しい思考へ力を傾けていくことが本当の意味での「青年学会構築」なのだと思う。

青年学会構築の為に

最近は選挙(法戦)の度に「SNSが重要だ!」という論調が強くなってきましたが、果たして学会リーダーのどのくらいの人がSNS上での発信を『学会の魅力発信』という目的で使っているだろうか。そもそもやってない、と言う人が多いと思う。

翻って使っていないことがダメだ!となるのは極端に思いますが、いずれにしてもリーダー自身が学会指導、仏法の研鑽に加えて、「どうすれば組織がより発展していくか」「魅力を伝えていくにはどうすれば良いか」を具体的に考えて、自らの知見の更新を図っていく必要があることは心得ないといけないと思う。

偉そうに講釈を垂れていますが、口だけの評論家になっては到底信頼に足る人物に成り得ることも出来ず、派閥を作ってしまう可能性も否定できない。過去にはそういう人も居たということは歴史に学ばないといけない。(私も気を付けます)

組織の発展は全世代からの信頼、そして異なる考えの折衷によって成り立つものと思う。前進に障害は付き物ですが、既存の価値観とのバランス感覚、そして口だけでない行動力がリーダーには不可欠であることもまた、深く自覚したい。

勝ちと価値にこだわる

最後に同書より私の感じた最も印象深い言葉を紹介したいと思います。

勝ち(勝利)にも価値(勝ち方)にもこだわる

「価値」という言葉が出てくると反射的に「創価」の言葉が連想されるのは、曲がりなりにも私も幼少期から学会の庭で育ったからだと思う。

(恐らく学会員ではないであろう)森林監督から「価値」の言葉が出てきたことに、何となく私は嬉しくなったのですが、同時に後ろにくっついた「勝ち方」に強く共感しました。

従来の学会活動は私の知る限りにおいても、結果がとかく重要視されていた。選挙はもちろん、基幹活動である弘教拡大や会合の結集などもとにかく数を上げるリーダーが強いリーダーであるとされていた。私はこの点について現在、青年世代が持つ価値観とはやや乖離があるように思える。

従前の価値観が踏襲され、更には人材育成もかなり昔から有る『型に沿った形』で行われた結果、根本的に大事な「考える力」がなかなか育っていないように思う。特に近年、最前線の活動家は考えるよりも、とにかく球を受けることが学会活動になることが多い。

創価の哲学、日蓮大聖人の仏法思想は、人間を「強く」「善く」「賢く」するものであるのだから、組織の最前線で活動する役職を持たない人でさえも「考える力」がついていかないといけない。

これがズバッと解決出来れば苦労はしない訳ですが、私もとある地域の一人のリーダーとして当事者意識を持って、しっかりと行動と思索を重ねていきたいと思っています。


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