新型コロナウイルスのもたらす禍の根っこ

新井さん
お久しぶりです。
昨夜、思い出したことを書き出してみます。
きっかけは、「いまの悪政以上に100年200年後に甚大な禍根を残すのはSNS文化だと思ってる」という言葉をコンピュータの画面越しに読んだ数日前の印象が、人と目があったように、数日たって、昨夜ぶつかってきたのがきっかけでした。「あんにゃろめ」って気分でした。

SNS文化の先を考えることは、今までなかったので、スマホ文化と読み替えていた気がします。僕は、それを見たからです。あれが、流行り出したころ、満員電車の中では新聞を細長く折って読んでいる人が段々減っていき、気付けば、手のひらの画面を見つめている人が増えていった。ジョージオーウェルの「1984」という小説に出てくるテレスクリーンを望んで持ってる人たちが増えていることは怖かった。
思えば、スマホって言葉さいしょに聞いた時、だっせー言葉だなとおもい、今も思ってる。対になって、今までの携帯電話は、ガラケーとよばれ、別に携帯電話好きではないけど、ガラパゴスは、ずっとかっこいいじゃん。と思った。なんで、ダサい言葉を自称するのかわからないけど、違和感のある、対の呼び名が現れた。

この違和感のある躯体の中を動き回る「文化」が、輪郭を持って新井さんには見えていることに、ざわざわと、昨夜した。

僕は、本を開いて、そのページを読むので、喫茶店のお隣さんの会話みたいに、誰かの話を途中から聞いて、気付けば聞いてないような読み方になってしまう。そのため、どうしてその話が始まり、どう終わるかがわからない。「1984」は、白昼夢のような眼がくらむ感じと、抜け出せなさがあった。数字の本で、「1937」という辺見庸の本がある。この本は、確か、新聞記事が出てきて、ヘレンケラーの来日に沸く日本と、その数週間後に繰り広げらせる関東陸軍の虐殺を湛える日本社会が切り抜かれている。日本の社会の「成る」惰性を批判し、「作る」ことに立脚しなければいけないというメッセージが辺見庸から僕に、突き刺さっている本です。

関東大震災(1923年)から2年後、治安維持法ができて、8年後に満州事変が勃発。東日本大震災から2年後、秘密保護法ができて、8年後が2019年だった。今、安倍政権・安倍夫婦がもたらしている禍と密接な物騒さはここにある。ただ、こうした顔の見える禍よりも、甚大な禍根を100年、200年後に残すのは、「SNS文化」だという新井さんの直観は、いますでにある甚大な、禍いの根っこ「グローバリズム」が、420年前に生まれた株式会社に由来するという時間軸を僕に連想させた。
というのも、14歳のころに世界史の授業で突き刺さった話がある。株式会社というのは、何で生まれたかという話しです。船で未踏の地をめざし、収奪し、帝国を拡大するには、貿易によって利益を生む仕組みが必要だった。だけど、海に出れば時には難破し、人が死ぬ。植民地とされ、奴隷とされた人が死ぬことは歯牙にもかけないが、自国の市民が帝国拡大の為に船に乗り、命を落とすことは、残された家族への莫大な補償を必要とした。そのため、商人たちはそうした、失敗のリスクの多すぎる賭けには乗り気ではなかった。この、死を補償しなくていいということを、エリザベス女王が保証し、投機が激増し株式会社が生まれたという話です。東インド会社が、こしょうを運んで利益を生んだ、なんかよりもずっと大事な話だと思う。子供のころ、ばあちゃんに聞いた戦争の話のように、本当かどうかは、わからないけど、世界を表しているような話しだ。顔のある女王の話をしましたが、これは社会がその仕組みによる人の死を補償しないことを保障したのだと思います。

9.11が起こり、イスラム社会の現在が、目に飛び込んできた。なんでか、ユースホステルに泊まり、本棚にあった中沢新一の「緑の資本論」をよみ、全文引用されている宮沢賢治の「氷河鼠の毛皮」を読んだ。自分が黄色い帆布で出来たジャケットを着ていて安堵したのを覚えている。でも、知らないだけで、帝国主義の安寧の中、自分が育ってきたんだとも思ったから、あからさまに毛皮を着ていなくてよかったと安堵したのだとおもう。あの時、僕は、何かと目があって意味が分からなかった。そんなことも忘れて数年過ごし、小室直樹の「イスラム原論」を読んだ。そこに、イスラム社会との比較として「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」が説明されていて、株式会社の母体となるものが、プロテスタンティズムの倫理なのかと、結びついた。その倫理は僕の中に内在化されていて、金を稼ぐことはいいことだと当たり前に思っていた。高山建築学校に行って、岡さんと話した時に、金を稼ぐことがそんなに重要だと思わないと聞いた時に、なんだか地面を揺らされた気がしたので、内在化していたんだと思う。イズム(主義)って主体的に選んでいるよりも内在化していることなんだなぁ、どうすりゃいいんだって驚き、意味の分からなさのしっぽをつかまえた嬉しさがあった。学校って、つかまえたものを捕らえきれなくても、姿を見ただけでもいいという寛容なところだ。それは、安寧と同じで、更に何かを内在化させてしまう。謙虚の虚ろがそれをバカ笑いする。人の虚ろは、とても大事な回路です。
小室直樹の「日本人のための憲法原論」には、三島由紀夫が出てきます。社会の虚ろは、バカ笑いせずに、人をバカにしたように緩慢な自殺に置きます。家畜化であり、人の虚ろの収奪です。三島由紀夫は、虚ろを人に持たせるためには、天皇が必要であると小室直樹は言っていたのかと思います。ざっと探して無かったのですが、動画で、三島由紀夫と東大全共闘が話しているものが一時見れました。そこで、三島由紀夫は、天皇という言葉がこの部屋を飛び回ること、それを言霊として肯定していた気がします。
SNS文化の100年、200年後は、不可避のものとして、イバンケリーは、本のタイトルとしています。それは、禍根としてではなく、理想を描くユートピアよりも試作を更新していくプロトピアとして描かれています。その地面の下にある禍根を直感した新井さんに、僕は思い出したことを書きだしました。ふんふん、そんでさぁと、話したいです。

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