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ノーベル平和賞

 発達障害が社会不適合レベルに達するまで悪化しているとのことで、発達し過ぎた方の能力を抑える薬を飲むようになってから、理解力・発想力とともに、文章力が格段に落ちた。
 2年間休筆していたが、コロナ不況の蓄財を景気浮上に転嫁できない我が国の余りの不甲斐無さに再び筆を執ったものの、語彙力がなく、文字数が減らせない。
 そこで、投稿前の下書きを知人に見てもらうことにした。
 結構、遠慮無く、「長い、くどい、不要、下品、不明確」と、バシバシ、問題点を指摘して、編集してくれるので,下書きからの文字数は、2,3割も減った。だから、その知人を「編集長」と呼ぶようになった。
 編集長は、決して博学な人物ではない。私の投稿の半分も理解していない様子だが、素人目に見て、この文章は読みづらい。わかりにくい。気分を害する。と言った、一般読者らしい反応を示してくれる。また、ChatGPT編集だと、あまり理解してもらえない、皮肉やユーモアも、編集長なら、逆に、そこには敏感で、加減も調整してくれる。

 あるとき、編集長から、「今回の投稿は余談が多過ぎて、何を伝えようとしているのかがわからない。」と言われた。
 その日の投稿文は、伝えたい事が三つくらい有って、何回かの投稿に分けるべきなのだろうが、その辺の整理力も弱くなってしまっているようで、うまく投稿を分ける事ができなかったものだった。
 「なんやか、いろんな事をいっぺんに話していて、何の話かわからなくなっている。」
 という指摘を受け、言葉で、説明を試みた。
 一つずつ丁寧に説明すれば、言いたいことはわかってきたようだ。
「しかし、いろんなこと考えているんやねえ。普通の一般人として、そんなことばっかり考えていたら疲れない?あなたは、これを続けて、何人かが読んでくれるのを楽しんでいるのかと思っていて、ともすればブログがバズるのを期待しているのかと思っていたけど、もしかして、もっと大きな目的があるの?」
 「もちろんたくさんの人に読んでもらいたい。私の発想は、昔から、逸脱していると言われ続けていた。発達障害の副産物だ。でも、その逸脱した発想がヒントになって、世界を救う賢者が現れるかもしれないからね。
 最終的な目標としては、『ノーベル平和賞』を獲ることやね。」
 編集長は、「ほほー、それはまた大変やね。」とさすがに冷ややかに笑みを浮かべた。
 「つまらないことで腹を立てたり、勤務先の愚痴をこぼしている人が、世界平和に貢献できるものですかねえ。」と言う。
 編集長にしては、不見識な発言だ。偉業を達成する者は聖人君子であらなければいけないと言う原則など存在しない。むしろ、奇行の噂の絶たない偉人の方がよっぽど多い。常識的な人間が、その常識的な発想でノーベル賞を取ることの方がずっと困難ではなかろうか?

 確かに、物理や医学や化学といった、学術的なノーベル賞を獲ることは、お偉い学者さんの永らくの労苦を愚弄するようなものだ。
 しかし、ノーベル平和賞は、ちょっと毛並みが違う。
 ノーベルの遺言によると、「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に授与すべしとされている。
 本年のノーベル平和賞は、光栄にも「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)」が選ばれたわけだが、これが日本国としては、佐藤栄作以来50年ぶりであるということをどれだけの人が知っているだろうか。
 平和憲法を掲げ、戦後80年、国家間の紛争を原因として、一人として外国人を殺傷したことが無い我が国が、これほど平和賞から遠ざかっているのはなぜか?
 それは、ノーベル平和賞の受賞者が、ほぼ、戦争・紛争の当事者であるからである。
 また、日本国も日本人も、平和主義を掲げながら、実際の戦争・紛争地帯に飛びこんで、仲裁・調停を行うようなことはしてこなかった点もある。
 私はこのブログで、戦争そのものを引き起こす原因を探究し、紛争の発現そのものを抑制する手段を検討すべきだと提唱している。
 悲惨な被害に遭った人々が、その悲劇を涙涙に訴え、「このような悲劇を繰り返すことはもうやめましょう。」などと、100年以上言っても全く効果のない戯言にいつまで平和賞を与え続けるのか?戦禍に笑う者、プロパガンダにオルグされた集団心理にとって、「御涙頂戴」はあまりに無力だという事をなぜ否定し続けるのか?
 物理学賞も医学賞も化学賞も、確実に前へ進み、人類が到達すべき真理に近づこうとしている。だからこそ、賞賛され、表彰される。
 日本被団協の活動を否定するつもりはないが、なんで今更70年前からの手法が表彰されるのか?佐藤栄作が何をやったという?非核三原則を“提唱”しただけじゃないか?
 被団協は、もっと大規模に、そして、国際的な舞台で、その実践の重要性を訴えてきた。佐藤栄作がもらえるなら、彼らの方が先だろうに。

 実は、ノーベル平和賞は、第一次世界大戦・第二次世界大戦中、「該当なし」が続いた。
 ここ数年を鑑みるところ、大国同士の直接衝突はないが、世界中に紛争が勃発している。国連安保理は思考停止状態で、どの紛争も解決の糸口を見出せていない。つまりは、世界の現状は、東西冷戦時より悪い、世界大戦下に近い状態なのだ。従って、本来であれば、近年のノーベル平和賞は、「該当なし」と言って過言ではない。
 そこで、活動家の寿命も尽きかけている被団協の方々に、最後の花道を献上したというところではないだろうか?実際、近年のノーベル賞は、そのような、タイムリーでなかったり、局地的で、世界的にもあまり認知されていないものが多いとの批判が出ている。
 というわけで、ノーベル平和賞には、他の賞ほど厳密的な選定基準は存在しない。

 次に、ノーベル平和賞の毛並みの違いとして取り上げられるところは、時勢の話題に乗ることで受賞することがあるという点だ。

 2014年受賞者、マララ・ユスフサイさんの少女期のエピソードは、衝撃的だった。
 「女に教育は要らない。」と言う過激な思想を持つ集団(タリバン)の支配する村において、BBCの依頼を受けたとはいえ、かなりの危険を冒して、自らの「学校に行って、勉強したい。」と言う健気な願望をブログで発信し続けたが、タリバンの明らかな狙い撃ちを受け、頭部と首に被弾、瀕死の重傷を負った。しかし、このような事は、武力と暴力が支配する世界では珍しい事ではない。彼女の銃撃事件までに、多くの女性教師等が殺傷されている。
 ただ、彼女が違っていた点は、当時、力を持ち始めていた「国境なきレジスタントツール」、ネットを活用していた点にある。だから、その幼き少女が襲撃されたこともまた、ネットで世界を駆け巡り、世界中で多くの人々が衝撃を受けた。そして、幸いにも彼女は生き残った。死んでいたら、危険な配信を依頼したBBCが、批判されて終わっていたかも。

 その後彼女のように、ほとんど無名の活動家が、ネットの力によって注目され、国家元首レベルでないと手が届かなかったノーベル平和賞を勝ち取っていく。
 しかし、その方向性は、マララ氏が受賞した時のような純粋さは失われ、その時点の時勢、いやもう都合と言うべきものにまで成り下がりつつある。
 権威主義国家や、ついこの間まで、風呂トイレですら男女別でなかった発展途上国に基本的人権や男女平等などを訴えたところで、それこそ衣食足りて礼を知ると言うもの。まず人殺しを止めさせる方が先じゃないのかね。
 手前味噌で失礼ながら、私が唱えているように、国連安保常任理事国による思考停止や、国際司法の弱腰状況等を改善する方が、よっぽど評価されるべきだろう。
 まあそれでも、無名の活動家がピックアップされるようになったと言う点は大きい。

 自国に反体制的な主張を展開して投獄されたと言う理由だけで、ノーベル平和賞を受賞した人もいる。
 要は、大規模な運動を行わなくても、その主義主張がネットでバズれば、ノーベル平和賞を獲得することは夢ではないと言うことだ。

 韓非子は公子といっても継承順位は15位以下と言うほとんど無名の貴族に過ぎなかった。読む人知らずとも、戦乱止まぬ中華全土を憂い、これをいかに平定せんと日々黙々と竹簡に筆を走らせていたところ、その一部が、たまたま秦の始皇帝の目に留まり、これが実施され漢帝国400年の礎となった。
 私も自分の理論の実施者が自分でありたいとは思っていないし、その可能性は0に等しいと考えている。しかしながら、私の発想を奇貨と認め、これを留め置く偉人が現れるかもしれないと日々願っているわけである
 だから、ノーベル平和賞を獲るのは、別に私でなくても良いわけである。私の発想やアイディアが採用されて、世界が少しでも平和になれば、それで良いわけだ。実践した人が、ノーベル平和賞を獲るようであれば、私の発想やアイディアは、かなり的を得ていたということであるから、それは至上の喜びだろう。

 しかし、そのためには、なんと言っても私のブログがたくさんの人に読んでもらう必要がある。その点については、少し工夫を考えていこうと思っているが、その話は次回としよう。

中沢啓治著「はだしのゲン」(朝日デジタル掲載写真)

 少し前、広島の平和教育の教科書から「はだしのゲン」が外されると言うことで、ずいぶん騒ぎになった。しかし、NHKのクローズアップ現代を除いては、どこの報道も「はだしのゲン」をただの悲惨な被曝体験の漫画としか捉えていない。
 「はだしのゲン」はそんな単純な作品ではない。
 原爆の惨劇が起きるのは、第2巻であるが、第1巻では、戦時中の日本人がいかに集団狂気に侵されていたかを如実に表現している。
 惨劇の実態についての表現は流石に緻密で、当時の悲壮を極限まで表しているが、そんな中、同じ被爆者でありながら、在日朝鮮人が差別される場面や、同じ日本人でありながら、逃げ延びた被爆者を厄介者扱いする親類の様子が描かれている。
 さらに、今や、かなり証拠が固まりつつある、「原爆投下=大規模人体実験」説についても、まさかそこまで人が鬼畜になれる訳がないと思われていた出版当時に、すでにその可能性を示唆している。
 中沢氏が伝えたかったことは、戦争の悲劇だけでなく、ところどころに表される、身勝手な正義を盾にした差別、そしてアジア人のくせに欧米に逆らった民族だから実験台にしても良いという差別、それらこそがこの悲劇を生んだのだということではないかと思う。
 失礼ながら、広島で出会った語り部さんも、被団協の発言からも、そういった狂気や差別心こそが戦争の根底にあることを語りはしない。それでは、その戦いを正義と信じ込まされている可哀想な人々を救えないし、その正義に反するものは下等であり殺して良いという身勝手すぎる差別も無くならない。

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