自由は競争
自由は競争を生む。自由主義経済の中で有れば結果的に優秀な企業が残る。無論現実社会では規制も有れば、業種は多種多様であり、営利、非営利の違いもあり、生き残り方は多様ではある。
現代の恋愛至上主義下の自由恋愛というのも必然として、語義からして競争を生じる。ただ、この競争は規制なき競争であり、自由意思の直接的なぶつかり合いに他ならない。それでいて古代、中世、近世に至るまでの血統至上主義を彷彿とさせる様な容姿至上主義の発露でもある。
我々は血統主義を野蛮であるとして表面上は排斥したはずだ。しかし今度は生まれの容姿の良し悪しによって人間を選別しようとしている。
競争において負ける事を運命づけられた者はどうすれば良いか?必死に足掻いて、その次は?諦めるのか?世の中に訴えかけるのか?それも功を奏しなければ?
我々はそういう時こそ歴史に学ぶ他無いだろう。そう、こういう時に人類は何をしてきたか?革命である。しかし、この恋愛至上主義体制は自由主義、西洋自由主義と合致し、強固に結び付いている。これに意見する者は社会不適合者の烙印を押されるのがオチであり、革命などと宣って意識改革など出来るわけがないし、数の理論でも圧倒的少数だ。正に容姿に優れぬ男(特に身長が低く、顔も悪い)は現代の穢多・非人だ。
であれば、どうするのか。革命など出来なくとも、自身の快楽、意思、信念、怨念、怒りの発露としての犯罪、テロリズムに手を染める他は結論として無い。非常に合理的な帰結では無いか?無論、穢多・非人にも家族や守るべき立場はあるだろうから、それが犯罪に手を染めるメリットを上回った場合には犯行に及ばないだろう。しかし、年老いて守るべきものなど一つも無くなった後なら?
我々は競争に負け、惨めに滅びるだけでは無く、馬鹿にされ尊厳と存在すら差別の対象になる事もしばしばだ。それが大多数にとって善い世界で、あるべき世界、心地良い世界なのかも知れない。だが、俺にとっては少なくとも不利益だ。この世界は個々人の自由意志の結果出来ている。それは悪いとは言わないし、大多数にとっては善い事だろう。しかし、それは残念な事に俺にとっては不利益だ。社会の大多数にとっては善いと思われる世の中の価値観なのかも知れないが、その価値観でさえそう君達が思っているだけの事だし、誰かがそうは思わないと言えばそれで終わりの話だ。であれば、俺はここで座して死ぬわけにはいかない。はっきり言って現代に於いて完全犯罪など無理な事は明白だ。そして、捕まれば重罪、死罪、社会的叱責、市民からの侮蔑等の凄まじいデメリットがある。しかし、それでも尚、俺にとって犯罪のメリットは余りある。自分の私欲を満たしつつ、強烈な一撃を持ってして君達の生活を脅かそう。そして、全ての価値観に善悪など無く、意思のぶつかり合いであり、被差別身分からの逆襲があるのだから苛烈な差別はするべきで無いという事を骨の髄に叩き込んでみせよう。
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