「日本人と関西人」❷
日本人と関西人。どちらが人として妥当であるとか有為であるとか、ではない。狭いこの国で二様の価値観の衝突は避けられず、対立は日常的に繰り返される。大仰に言えば分断とも言えるこの如何ともしがたい事態だが、問題はそのことの認識であり、その共有であろう。共有され理解されれていればコンフリクトは起きないのかもしれない。元来、日本人は海容と和を旨とし八百万の神の御霊の加護のもと、多様な価値観を超越して慈しみあう民である。生き方や文化の違いを超克してこその大和島根の繋がりともいえる。
分かりやすい挿話をひとつ。日本には東西を問わず贈答の文化がある。相手を想い、感謝の情を伝えんと発意する。脳の回路を駆使し相手の歓喜をイメージする。イメージの焦点を合わせるように贈り物を探し、選択する。ここまでのプロセスをモノに載せて贈り、喜ばれ返礼あれば想いは相乗し増幅される。仮に、結果的にモノが重複するなど想定外の結果となったとしても、過程における贈答者の想いは伝わる。贈答行為が共有されメモリアルとなる。贈答が日本の美しい文化として称揚される所以であろう。ところが、関西人の合理主義が求めるのは結果であり利得である。重複は論外、お気に召されなければそれは無駄であり果実に値しない。伝えるべき謝意御礼の感情は生じない。関西人はかくなる事態、つまり利得の逸失を避けるべく、受領者側がモノを指定したりもする。結果として破綻ない贈答が行われれば、心性の昂揚はないものの受益事実は確実に担保され、贈答行為は行われたことになる。関西(正確には関西人同士)ではモノの指定はお互い様であり、揉めることはないという。寧ろ揉めないための指定ともいえるのだ。関東や東北などの一般的な日本人にこのメンタリティは説明がつかない。なるほど無駄は回避されるが、果たしてそれが文化的行為と言えるのか。日本人の美徳行為としての贈答を自傷的に冒瀆することになりはしないか、とも。当然ながら関西の当事者に罪の意識はない。結果が得られ互いがハッピーになれることのどこに問題があるというのか、と。しかし、ここで一考だ。この「違い」の根っこに何があるのだろうか。本来、手段であるはずの贈答行為。これが、関西においては目的化してはいないのか。贈答が目的だから、その実行を明示したがる。見栄が先に立つ。なるべく衆人環視のもとで贈る。当然ながら熨斗やメッセージカード等にもこだわる。無記名でそっと、という文化は存在しないのだろう。一般的日本人、なかんずく東北人に於いてはそこに通底する「恥じの意識」が明示的贈答を忌避する。贈答者の明示は単なる独善的自己顕示であると。自己顕示欲の発露が目的化すれば、他者への感謝や御礼という本来の主目的の崇高な価値は相殺される。日本人の誇り高き精神文化が棄損される。そのことを恐れる。続きは次回。