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おっさん的ゲーム論
皆さんこんばんは。かんおさです。
いつもお読みいただいている方、また初めましての方、お読みいただきありがとうございます。
ふとnoteを読み漁っておりましたら、面白そうなタグを見付けたので、そちらについての記事を書いてみる事にしました。
「#自己紹介をゲームで語る」
そうです。ゲームについての記事です。
ちなみにここでいうゲームとは、主にテレビゲームと呼ばれる物を指します。
そして私は自他ともに認めるオタクなおっさんなので、この手の話題なら幾らでも語り続ける事ができます。なんせオタクですから(偏見)
まぁ、それは言い過ぎにしろ、私の人生の半分はゲームとオタク文化で培われていると言っても良い位です。
そんな半生を振り返りつつ、私が思うゲームと言う物について好き勝手に語りたいと思います。
おっさんの青春時代はゲーム三昧だった
私の生まれて育った世代は、丁度、ファミリコンピューターが出始めた時期で、正にテレビゲームが産声を上げて世に広まって行った時期と一致します。
その当時、テレビはまだブラウン管でした。
熱い・厚い・重いという今のテレビの形からは想像もつかない様なものです。
あれが飛んで来たら死人が出ます。そういう物です。
そんな時代にあってファミリーコンピュータは、テレビに繋いでゲームを楽しめる革新的な機械だった訳です。
ちなみに配線を繋ぎ直すたびに、アンテナ線が摩耗し短くなっていく呪いに苦しんだ方は数多かったのでは無いでしょうか?
ファミリーコンピュータの凄かった所は、カセットと呼ばれる物を差し替える事で、多種多様なゲームを楽しめる所でした。
マリオブラザーズから始まったこのテレビゲーム黎明期は、あっという間に進化を遂げ、時代の流れと共に数々の名作を世に送り続けました。
多感な小学生時代からそういう時代に触れて来た私にとって、テレビゲームと言う物に魅了されるのは、ごく自然の成り行きだったと思います。
ただ、一方でネックとなったのは、その目新しさと面白さ故に、その魅力的な世界にのめり込んでしまい、勉強や運動など、子供がしなければならないと言われていた物に手が付かなくなる事例が発生してしまうという弊害でした。
私の場合は、まず中学生になるまで自宅でゲームをする環境がなかった事や、必要最低限の事はちゃんとこなしていたので、そこまで目くじら立てられる事はありませんでした。
ですが、世の中の風潮としては、そういう事もあってゲームは子供を駄目にするものとして認知されてしまいます。
子供は外に出て遊ぶことが必要だ
子供は勉強しなければならない
何時間もテレビにかじりついているのは不健康だ
全て当時から言われ続けている事で、それを守れなくするゲームという存在は、悪魔のささやきであり、大人からすれば恰好の敵だった訳です。
ただ確かに、ゲームがそういう一面をもつ事は事実なのですよね。
だって面白いんですもん。のめり込んじゃいますよ。
この先、どうなるんだろう? もっと先に進めたい。
練習してもっと上手くなりたい。強くなりたい。
私の青春時代はゲームを通して常にこんなワクワクした気持ちで満たされていました。
それ位に私や、ゲームにハマる子供達にとって、この世界は魅力的だったわけです。
おっさんが考えるゲームと言う存在とは?
そんな青春時代から変わらず、私と言う存在はおっさんになり、趣味趣向は変われど今もゲームを楽しんでいます。
まぁ、人生的には普通とは言い難い生活を送っております。
これはゲームの影響も全くないとは言えませんが、それより性格的なモノが大きいよなぁと思ってます。なんせ人に嫌われる事を極端に恐れておりましたので。それが社会に出てから大きなハンデになりました。それは、人生録の方で書いてますので、興味があったら読んでみて下さい。
さて、そんな風に今なおゲームを楽しみ続けている人生を送っている私ですから、色々とゲームという存在については考えてきました。
そして、私としては高校生くらいの時に、ごく自然に一つの結論に達している訳です。
ゲームの行きつく先はバーチャルリアリティであり、その魅力は体験である
これは今の時代のゲームを楽しんでいる方ならお分かりかと思いますが、近年のゲームの在り方は、徐々にリアルへと近づいています。
画像もそうですが最近ではインターフェイスもVR型の物が出始めており、ネットを通してリアルタイムに他人と交流できる事もあいまって、一つの世界として成り立つものまで出てきています。
そして過去から現在に至る迄、ゲームの何が人を惹き付けてやまないのかと考えると、結局の所、ゲームを通して得られる体験であると私は結論付けました。
昔のファミコンに然り、今のグラフィックの向上したゲームに然り、その楽しさの本質的な所は、疑似体験によるものなのです。
昔の技術で表現できなかった部分は、個人の想像力で補われていただけであって、その元々の面白さの部分はずっとそのままだと私は思います。
勿論、表現方法や今まで培われて来た効率的なシステムなどの助けもあり、更に快適にその疑似体験を得る環境になってきたかなとは思います。
だからこそ、ドット絵のゲームだろうと、CGで繊細に描かれたゲームだろうと、楽しいものは楽しいのです。そこに何を投影するかは、プレイヤーに委ねられているのですから。
はたしてゲームは悪なのか?
昔から議論されて来たこの論調ですが、私は明確に否と答えます。
というのも、ゲームというものはあくまで媒体の一つに過ぎないからです。
勿論、ハマる人はハマります。生活すら壊す事もあるでしょう。
ですが、それを一括りにゲームのせいにするのはちょっと乱暴な意見だなと思わずにはいられません。
ゲームもあくまで表現方法であり、ツールの一つなのですから、それだけを以て、悪と決めつけるのはちょっと……というのが私の本心です。
私からすれば、映画や本と同じような位置づけであり、それがよりリアル方向に進化した表現方法をとっているだけであると思っているのです。
一つの例を挙げましょう。
昔、凄く人気を博した海外ドラマがありました。
24時間を題材にした、例のあれです。
あの当時は、日本中がそれに熱狂し、会社に行くと寝不足の人たちが続出したのです。
「いやぁ、ついつい夜更かししちゃったよ」
そう言いながらミスを連発する駄目な社員が私の周りでは量産されたわけですが、これはある意味笑い話になって語られています。
ですが、これがゲームになると何故か印象が変わってしまうんですよね。
ゲームが面白くて夜更かししようものなら、何故か「駄目な奴」って言われるんです。勿論、その会社の環境にもよるでしょうけど。
これはアニメや漫画でも同じ風潮があります。ドラマは良いのにアニメと漫画は駄目なんです。意味不明です。
やってる事は全く同じなのに、媒体が違うだけでこの差が生まれます。
つまり、イメージありきでゲームの事を語っている訳です。
勉強の事もそう。
運動の事もそう。
勉強をし過ぎてぶっ倒れる事は美談になるのに、ゲームは駄目なんです。
運動をし過ぎてケガをする事は美談になるのに、ゲームは駄目なんです。
うーむ、意味が分からない。
全ては自己管理の失敗によるものなのに、それはなぜかゲームのせいにされているのです。
裏を返せばそれだけゲームという媒体が魅力的なモノだという証拠に他ならないのですが、その本質から目を背けて、安易に敵視した結果、今のような風潮が生まれているのだと私は考えております。
どこぞの県の条例の様に、叩きやすい原因とされる物と認知された結果、それを締め出せば問題は解決すると思い込んでいる節が見て取れます。
いや、無理だと思いますよ。だって、面白いものは面白いんですから。
ゲームが仮に封印されて手の届かない物になっても、何とか隠れて楽しもうとするか、別の物で代替するだけです。
なので私から見れば、あの例の条例の件は、親の言い訳の材料としては良いのでしょうが、対処方法という意味では根本的に間違ってます。偉い人にはそれがわからんのです。
そしてその認識の差を生むのは、ゲームが与えてくれている物が見えていないからなのかなと私は思っています。
ゲームが私達に与えてくれるもの
先程私は、ゲームの本質は疑似体験であると書きました。
超有名なRPGにしろ、シューティングゲームにしろ、ギャルゲーにしろ、体験させるものが違うだけで、その本質は変わらないと私は思っています。
しかし、如何せん、その考え方が何故かあまり浸透してないように見えます。
ゲームを楽しむ多くの方が「何が楽しいかはわからないけど、とにかく楽しかった!」という感じになっているのでは無いかなと言うのが私の感覚です。
まぁ、それはそれで良いのですが、それだと楽しさを得るだけの消費物として見られてしまうのでしょうね。
恐らく、ゲームという媒体が今なお、悪しざまに語られるのはその辺りの偏見があるからかと私は思っています。
しかし、私からすればその本質は先程から申し上げている通り、疑似体験なのです。それはゲームだけでなく映画や本なども同じ立ち位置であると、私は考えています。
なので、結局の所、その体験を生かすかどうかは、ゲームを楽しんだ本人次第なんですよね。
RPGなら、感動的なストーリーを堪能する事もあるでしょう。
自分が強くなっていく過程を体験して成功体験を高めるのも良いでしょう。
壮大な音楽に触れ、心を震わせるのも良いでしょう。
全てが自分の中に体験として残り、美しい思い出になるかもしれません。
格闘ゲームなら、敵を打ち倒す爽快感が得られるでしょう。
時にどうしても勝てず、悔しい思いもするかもしれませんね。
そして、もっと上手くなるために努力するかもしれません。
そんな数々の体験が未来の自分にとってどんな形で役に立つかなんて、それこそ神様でも分からないでしょう。
事実、私がゲームから得て来た数々の体験は、今こうして文章を書く事に役立っているだけでなく、日々の暮らしの中においても、全てにおいて生活を潤わせる一つのきっかけになってくれています。
私の書く物語は、勿論、ゲームで体験した感動が元になっています。
またもっと言えば、私と言う存在を形作る一つのきっかけになっていると言っても過言では無いでしょう。
ちなみに、一つだけお勧めするRPGを挙げよと言われたら、私は以下の作品を推します。
子供から大人まで幅広い世代にお勧めできる名作中の名作です。
お子さんと一緒に見ながら進めるのも良いかもしれません。
アクションRPGなので人によっては得手不得手があるでしょうが、ちゃんと育てていけば、そこまで苦労する事は無いでしょう。ほぼ全てのゲーム媒体で楽しめる作品なので、興味がある方は是非触れてみて下さい。
また近年、音楽に興味を持って色々と聞いております。クラシックも聞きますが、それは間違いなくゲーム音楽の影響があります。
特に、とあるゲームでは人の声の可能性と言う物をゲーム音楽を通してまざまざと見せつけられました。
こんなにも美しい表現方法があるのかと、涙したのです。
ちなみに、この作品は「アルノサージュ」と言いますが、その前編にあたる「シェルノサージュ」とセットで、サージュコンチェルトと呼ばれています。
この作品群の体験が私の人生の中で一番極上の物でした。
まさに、これぞゲームの神髄と言って良いかと思います。それ位に、ゲームという媒体の本質を活かしきった作品群でした。
興味がある方は是非体験して欲しいのですが、ネタバレすると一気に感動が薄れますので、そこはお勧めしません。
残念ながら今はなき「PS Vita」での作品なので、追体験は不可能ですが、いつか別の媒体で復刻したら、興味ある方は触れてみて下さい。
戦術や戦略ゲームから、歴史に興味を持ち、そこから更に都市構築のシミュレーションゲームなどを通して、世の中の動きや物流、経済、インフラの重要性、あらゆるものに対して今の世の中が繋がっている事を実感できているのも、それらのゲーム体験を通して経験したからこそでもあります。
ソーシャルゲームで植物を擬人化した美少女を愛でるうちに、園芸に興味が出て初めてみたりと、こちらも変な形で影響がありました。
移置ゲームなどを通して、一生行く事が無かったであろう場所に足を運んでみたりと、こちらも思っても見なかった新たな体験に繋がっています。
あくまで体験を生かすのは自分次第
全て私が楽しんで来たゲームでの体験が糧となり、今の私の生活を潤わせてくれています。
そしてそれはゲームという媒体を通して、体験と言う物がいかに重要であるかを気付けたからこそ、分かる事であると断言できます。
あくまでゲームはきっかけですが、それでもゲームを通して貪欲に体験を積み重ねた結果、新しい価値観を得るきっかけが更に先へと繋がっていくことは、私自身が体験した紛れもない事実です。何より楽しいという感情をこの年でも色褪せずに呼び起こしてくれるって言うのが、凄い事なんですよね。
まぁ、いい大人(と言うかおっさん)なのでもう少し落ち着けと自分でも思わなくはないですが、特に迷惑をかける相手もいないので、今ではこれで良いと思っています。
もしゲームにハマり過ぎてしまった弊害があるとすれば、それは色々と興味が際限なく広がった結果、やってみたい事や、日々の楽しい事が数多く出てきてしまっている点でしょうか。
結果としては、どう考えても普通ではない人生を歩んでいるとは思いますが、それを支えてくれているのもまたゲームという存在でもあるので、この辺りは痛み分けという所かもしれませんね。
これからもゲームに限らず貪欲に様々な体験を欲し、人生を彩って行ければなと思っております。
以上、好き勝手に自分の思うがままに書いたら意味不明な文章になりました。
何かを得られるきっかけになってくれれば、嬉しく思います。
今回はここまで。
お読みいただきありがとうございました。
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