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戦国一の酒豪といえば
戦国武将は戦が強い豪傑ばかりではありません。
酒が強い豪傑も数多くいます。
中でも上杉謙信公、真田信繁公、長宗我部元親公は、
伝説的な酒豪として知られています。
しかし、戦国一の酒豪を挙げるとすると、
やはり母里友信ではないでしょうか。
その酒豪振りは、「黒田節」にも歌われています。
次のような歌です。
酒は飲め飲め 飲むならば
日本一(ひのもといち)のこの槍を
飲み取るほどに 飲むならば
これぞ真(まこと)の黒田武士
酒宴の席で年輩の方に好まれる歌ですが、
もともとは福岡に伝わる民謡です。
「黒田節」の黒田とは、黒田長政公のことです。
福岡藩52万石の初代藩主だった武将です。
母里友信は、その黒田家の重臣でした。
先代の孝高公の時代から仕えていました。
勇猛な武将であり、黒田家随一の槍の名手でした。
生涯に討ち取った敵の首は七十六にも及ぶそうです。
酒もたいへん強く、槍の腕前よりも酒豪としての名声が
各地に広まっていたほどです。
あるとき母里友信は、主君の長政公の命を受けて、
使者として福島正則公を訪れました。
「どんなに勧められても決して酒を飲んではならぬ」と
事前に長政公からきつく言い渡されていました。
しかし、正則公も酒が大好きな武将ですから
この機会を見逃すはずはありません。
酒豪の母里友信が来るとあってはじっとしていられず、
酒をたっぷり用意して楽しみに待っていました。
ところが、いくら酒を勧めても母里友信は固辞し、
決して盃に手をつけようとはしません。
仕方なく正則公は独りで酒を飲みますが、
次第に不機嫌になっていきます。
「何じゃ、黒田の武士は酒も飲めぬ腰抜けか」と
酔いに乗じて散々に母里友信を煽ります。
自分が罵倒されるのは耐え忍ぶことができますが、
さすがに家名を貶められるのは我慢なりません。
たとえ主君の命に背いても、お家の名誉を守りたいと
母里友信は覚悟を決めました。
ついに「では、頂戴いたしましょう」と答えて、
正則公の挑発に乗ってしまいます。
さっそく目の前に運ばれてきたのは巨大な盃でした。
そこに信じられないほどの量の酒が並々と注がれます。
さすがの母里友信もこれには驚きます。
優に二升か三升の量を超えています。
正則公はにやりと笑ってこう言います。
「どうじゃ、飲めるか。無理であろう。」
それでも母里友信はひるむことはありません。
「これを飲めば願いをお聞きいただけますか。」
「何でも申してみよ」と正則公は請け合います。
どうせ飲むことはできないと思ったのでしょうか。
ところが、母里友信は巨大な盃を両手に抱え上げると、
一気にそれを飲み干します。
見事な飲みっぷりに、正則公も感嘆して、
「あっぱれ」と叫びます。
「約束通り、何でも所望せよ」と言われた母里友信は、
名槍「日本号」をいただきたいと申し出ます。
それを聞いて、正則公は青ざめてしまいます。
福島家秘宝の自慢の槍だったからです。
「日本号」は室町時代に作られて皇室が所有していました。
それを正親町天皇が足利義昭公に下賜しました。
さらに織田信長公に伝わり、豊臣秀吉公に伝わり、
正則公が拝領しました。
日本三大名槍にも数えられる由緒ある槍です。
酒の余興に与えるような品ではありません。
正則公は悔しがりましたが、武士に二言はないとして、
泣く泣く母里友信に「日本号」を与えました。
それでも諦め切れない正則公は、長政公を介して
他の槍と交換してくれるように懇願しました。
しかし母里友信は、頑として聞き入れませんでした。
これぞ真の黒田武士です。