革新と尊厳と
新型コロナによって、様々な分野での革新が、10年位前倒しになって進みつつあるようです。そんな世の中に取り残されそうな僕、46歳介護職、ではありますが、人間の末路において、日々奮闘しております。人はどんなに偉い人でも、どんなに進化しようと死んでゆく限りにおいては(技術的には不老不死も可能といわれてもおりますが、)ここ、介護の必要なところに至ります。たしかに老境においてもそれは経済格差によって環境は大きく異なりはしますが、今のところ、誰であれ人間の尊厳を保つのが非常に難しい、そんな現場で僕は毎日闘っています、簡単に人の尊厳を踏みにじってしまう自分自身と、です。人が死に至るその過程において、社会的医療的革新がおこれば、介護的にも革新がもたらされるかとも思いますが、それでも人間は、食べて出す、これが「生きること」です。基本です。あとは少し身体を動かして、よく寝られたら最高ですが、老境においては気持ちよく身体を動かすのも良く眠るのもなかなか難しいことですし、なんといっても人として(尊厳をもって)食べて出す(その始末含む)、これがとても難しいのです。この「生きる仕組み」には、革新はないでしょう。もしかしたら食べなくても生きていかれるようになるかもしれませんが、もはやそれは人ではないと、僕は思います。
妊婦の血液でダウン症などの染色体異常が分かる「新出生前診断」の実施拡大に向け、日本産婦人科学会が実施指針の改正を発表しました。小児科医との連携を盛り込むことで、日本小児科学会と日本人類遺伝子学会(なんだこれ)の同意を得たそうです。これを厚生労働省が認めれば、民間クリニックなど小規模開業医院でも実施できるようになり、全国で現在ある109認定施設が70か所程増える、つまり出生前診断がより身近になり、金銭的には高額になるにしても、誰でも望めばアクセスできる環境になるわけです。これは革新でしょうか。本当に人間は、生を優劣で判別することに耐えられるのでしょうか。また高額医療行為になるととするならば、その選択自体に経済格差が出来てしまってよいのでしょうか。
宗教的にいえば、生死は神の領域、道徳的には命の、尊厳の問題かと思います。現代社会はここに経済の問題がいろんな形でのしかかってきます。
末路を思うとき、身の処し方考え方には尊厳死というものがあります。大抵は幇助を必要としますが、あくまでもその人の意思によって行われるのが基本です。自殺行為の一種とも言え、広く言えば自殺も尊厳死かもしれません。安楽死というものもあります。回復の見込みのない場合で、生きている限り耐え難い苦痛が取り除けない場合に薬品投与などで実施されますが、これにも本人の明確な意思が必要です。消極的安楽死というのもあります。回復見込みのない苦痛を伴う末期において、医療行為を停止する、中止することをいうようです。これも本人の意思が基本ですが、確認できない場合には配偶者、子など最も近い家族の忖度、判断によってできることになっています。いずれにしても、そこに本人の意思があって初めて成り立つこととして考えられており、すべて尊厳に基づく死の選択です。その裏には経済的な話もいろいろとつきまとうことにはなるかと思いますが。
一方、出生前に、親が、授かった子が「五体満足であるかどうかを知る」ということはどういうことでしょうか。無論ですが、そこには子の意思はないわけですし、僕はそれを忖度することも難しいように思います。生まれた子が何らかの重い障害を持っていた時のショックは、その親でなければ分からないので、想像を絶するとしかいいようがありませんが、少なくとも僕も3人の子の親ですので幾許かは察することはできます。その後の育てる困難さも同様です、想像を絶します。それでも僕は思います。障害のある子を育てた親が、最終的に「産まなければよかった」「この子は生まれてかわいそうだった」と、そう思うでしょうか。聞いたことはないので断言はできませんが、僕はそういう人はいないと思います。子もしかり、みんな自分の生をそのままに受け入れていきています。「生んでほしくなかった」「生んでなんて頼んでない」というのは五体満足な思春期の子がよく使う言葉です。ではなぜ出生前に知りたがるかというと、「その子の人生を思って」または「育てる自信がない」「そんな苦労は自分にも子にもさせたくない」などと考えるからでしょうか。そこには経済的な判断もあるかもしれません。「家の恥」といった思想も残存している事実もあります。しかしそれらは僕ら社会の問題です。障害のある子を育てにくい社会、障害のある人が生きにくい社会、障害に差別の根差す社会、だから怖くて知りたいと思うのでしょう。でも、そもそもは知りえなかった話、生まれる前から考えなくてもよかった話です。今だって考えるべきは、生まれてくる子がどうかではなく、それを受け入れる社会がどうあるべきかではないでしょうか。革新というと、医療のような技術を考えがちですが、どんな人でも尊厳をもって生きて行ける社会を築くこと、僕はそれが革新だと思います。
憲法的に考えてみましょう。出生前診断は、いわゆる「知る権利」といえるのでしょうか。そうかもしれません。第25条に生存権があります。「健康で文化的な最低限度の生活」です。障害があったらダメでしょうか。そうかもしれません。もう末期で苦しむだけならどうですか。第13条、「すべての人は個人として尊重され、生命、自由、幸福を追求する権利」があります。自分の命だから自分で絶ってもいい。そうかもしれません。しかし兎にも角にも権利というのは、人が幸せであるためにあるのです。では誰から与えられ、保障されるのかといえば、第97条に「人類が多年にわたる自由獲得の努力の成果」で「過去幾多の試練に堪え」て「侵すことのできない永久の権利として信託された」とあります。「信託された」とはなんでしょう、誰から?憲法の文面からは主語がなく、よく分かりまん。第11条には「基本的人権は~与えられる」とあります。やはり何からとははっきり主語がなく分からないのですが、「人類が多年にわたる自由獲得の成果」として王様やらの権力者から勝ち取ったこの権利は「生まれながらにして自然に」「神(天)から与えられた」と考えたのが欧米人の人権思想の始まりで、自然権であるとか天賦人権だという考え方になります。もとを質せば神、やはり生死は神様の領域ということになりますでしょうか。では「信託した」のは誰なのかといえば、勝ち取ってきた代々の世界人類でしょうか。日本でいえばご先祖様も神様です。日本では勝ち取ってきてはいませんが。さて、この神様から与えられ、信託された人権ですが、現在から未来へと繋ぐのに、「不断の努力によって、これを保持しなければならない」と第12条では謳っています。保障するのは憲法であり、僕たちの努力です。でも少しおかしいですね、神様から自然にもらったものなのに、保つのに努力し続けなければならないなんて。人権とは尊く危ういものだということは、歴史的に見ても僕ら日本人には本当のところ分からないことになっている事情がありますが、では努力するとして、「努力する」ことが「出生前の命を知ろうとする」ことでしょうか。人権は僕たちが幸せであるためにあるのでした。出生前の命を知ることで、僕たちは幸せになれるのでしょうか。昔は事情によっては男子でなければ間引くということもあったでしょう。五体満足でなければ生きていけなかったということもあったでしょう。でも今は時代が違います。人権を保持してまだ浅い僕らは、昔よりはるかに未熟です。出生前なり、末期においてなり、生の選別をしてしまって、僕らにはその選択を背負って生きていくということは、とても辛いことではないでしょうか。未熟な僕たちの判断は常に怪しい、正しい判断なんてあるかも分からないのですから。
最後に第14条。「すべての人は、法の下に平等であって~差別されない」と謳っています。差別はされないけれども、人生は平等ではありません。人生は不条理で不平等なものです。では何が平等か。自然に生を受けて、必ず死ぬということ。これだけがすべての人に平等なことです。僕が思うのは、この平等において、人がそれを故意に侵してはならないということです。だから人が人を殺すことはもちろん、自分で殺すことにも、僕は反対です。だから生まれてくる命の選別につながるようなことにも慎重でいたいと思います。それが最低限の、尊厳を守ることだと思います。
革新は、尊厳を守るためにあってほしいと思います。神様がいるかは分かりませんが、お金で尊厳が左右されるような社会には、神様はいないでしょう。お金も尊厳が保たれる社会の革新のためにありますように。神様、不条理な世の中で、すべての人が生を全うできますよう、すべての人に幸せを。